事実は発見されるのではなく作られる

強い想像力を持っている人には「100%想像した通りの未来」が訪れるということではない。 そうではなくて、強い想像力を持った人はあまりに多くのディテールを深く具体的に想像してきたので、 訪れるどのような未来のうちにも、「ぴったり想像した通り」の断片を発見してしまうということなのである。

その発見はひとにある種の「既視感」をもたらす。「既視感」とは「宿命」の重要な構成要素である。 だから、想像力の豊かな人は、どのような人生を選んだ場合でも、そこに「宿命の刻印」を感知する。

内田樹の研究室: 想像の力

自然の中に隠された必然を発見するのは、学者の仕事だ。

すばらしい発見をした学者には名誉と賞賛とが集まる。新しい発見、新しい知識には価値がある。価値はスポンサーから査定され、学者は資金的にも報われる。

知識の価値はお金で査定される。ところが査定された知識の価値は、年々下がっている。

知識が広まるのは、この数年格段に早くなった。広まった知識は、急速に消費され、陳腐化する。この知識の高速道路化の影響で、新しい知見が「新しい」状態を保てる期間は年々減っている。

第一発見者がその名声を保っていられる期間は、年々減少している。 発見は、継続して行われないと、その研究者は表舞台から忘れられる。

学会というのは、赤の女王が支配する社会だ。お互いの位置関係は変わらないように見えても、みんな懸命に動きつづけなくてはならない。そこにとどまっていられるためのハードルも、年々上がる。大発見をした研究者は、次の年も大発見することを求められる。

本来、真実とは自然の中から偶然発見されるはずのもの。しかし、周囲からは「必然」を求められる。

発見の出来ない研究者は、表舞台から去るしかない。幸い、新しい才能は毎年登場する。一人や二人の研究者が表舞台から去っても、学問は前に進む。

しかし当の研究者はそうはいかない。研究者だって人間だ。霞を食って生きて行けるわけじゃない。一定の間隔で発見をしないと食べていけない研究者という仕事は、非常に厳しい世界だ。

実際、アメリカ人で研究者を志す人は減っている。特に、研究で身を立てようと考える人は減っているという。

研究者は、これはと目星をつけた偶然の山の中から必然を見つけ出す。自分の突き進んだ「偶然」の集積の中に必然が見つからないなら、その努力は無駄になる。「自分の目星をつけた山は、ただのゴミ山だった」。それだって立派な発見だ。でもそんな発見には、だれもお金を出さない。

必然が何も見つからなかったら、食べて行くためには必然を作るしかない。新しく立てた仮説が、本当はそうではないのに「真実だと証明される」。その世界に進んだ以上、必ず成功しなくてはならないという研究者へのプレッシャーは、しばしば真実をゆがめてしまう。

自分の住んでいる心臓屋の業界で話題になったのが、2001年のNatureに掲載された論文だ。

マウスの心筋虚血モデルで、骨髄の造血幹細胞を心臓局所に注入することで、虚血心筋に造血幹細胞を移植すると、移植細胞から内皮や心筋細胞が分化して、心機能が改善したという。 死んだ心筋は二度と再生しない。この原則がこの論文以後覆り、「心筋を新たに生やす」という夢に多くの研究者が飛びついた。

いい仮説には夢がある。この論文が打ち立てた「心筋は再び育てられるかもしれない」という仮説には、多くの人をひきつけのるに十分なだけの力のある夢があった。

この報告を契機として、さまざまな臨床報告が後を追った。有名なところでは、ラットの心筋梗塞モデルにG-CSF(骨髄増殖因子)を注射し、心筋梗塞急性期に骨髄細胞を増加させたところ、虚血により失われる心筋が、骨髄細胞により心臓の筋肉が再生したとする報告がある。これについては新聞報道され、たし か国内のどこかの大学病院が、人体での治験をやっていたはずだ。

ところが、このあと2004年頃から話がおかしくなってくる。当のNature の実験の追試を行ったところが、だれも同じ状況を再現できず、今では骨髄細胞が心筋に分化する可能性は、ゼロではないにせよ、極めて低いと言われるようになった。

論文と同じ操作をやったとして、心筋に分化する細胞は、心臓全体で1個ぐらいの割合ぐらいだという。

幸い、真実には自己修復力がある。

現実は真実を補完する。間違った仮説によってゆがめられた真実は、実世界での臨床経験によってその間違いを修正され、やがてその正しい姿をあらわす。

間違った前提から生まれた仮説は、やはり現実世界でおきる現象を説明しきれない。

医学は実学だ。

実験室レベルで発見された仮説は、動物実験、臨床現場での経験を経ないと真実とは認定されない。そもそもその仮説が何も産まなければ、話は前に進まない。その仮説から生まれた物質が生命に有害ならば、動物実験レベルで話は止まる。実際に薬が製品化されたとしても、それが効果が無ければ、結局市場から忘れられる。

一方で、たとえ間違った仮説から始まったにせよ、それが臨床現場で「効く」ならば、そこから新たな知見がどんどん生まれる。

実世界と「発見された必然」との乖離は、本当の必然がどんなものなのかを発見する手がかりを提供し、真実が発見され、やがて学問はまた前に進む。

「骨髄から心筋がどんどん生えてくる」という仮説は、今ではどこかが間違っていたとされている。それでも、骨髄を注射すると、心機能はある程度よくなるという事実は残り、その発見は知識の世界を進めた。

今日では、骨髄細胞の出す液性因子に、何らかの心筋保護作用があることが考えられている。G-CSFの静注で心筋が温存されたという話題にしても、現在心筋自体にG-CSFの受容体が見つかった、という話題がトピックになってきている。

現在は、多分過渡期なのだろう。

新しい発見の価値は年々低下し、それを元手に食べていかなくてはならない人の競争は、ますます激しくなっている。

昔の研究者は、研究とは別に、経済的なバックボーンを必ず持っていた。そんなに古い話じゃないはずだ。自分の父親は生きていれば70前の研究者だったが、当時の大学では、よほど裕福な家でもなければ博士号を取ることなど考えられなかったらしい。

もっと大昔、錬金術師が活躍していた頃は、学問なんて貴族の道楽だった。学者というのは何よりもスポンサーを「楽しませる」ことを求められ、逆にそれが出来れば好きなことが出来た。

今の研究者には、国が資金を出している。国家の研究資金というのは、その研究のもたらす「成果」に対して支払われる。だからこそ、研究者は常に成功するプレッシャーにさらされる。

今は、望めば誰もが研究者への道を歩むことができる。予算の獲得競争はだんだん激しくなり、研究だけで食べていける人の数はますます減る。一方で、研究者であることを心から楽しんでいる人の数は、過去に比べて減っているようにすら見える。

振り子はそのうち逆に振れる。錬金術師にまで戻ることは無いだろうけれど、ただただ勉強だけ出来て、研究をやっていれば食っていけるのは、おそらく今が最後だ。

今後の研究者に求められるのは、人に夢を見せる能力だろう。

広い意味でのプレゼンテーション能力。仮説が合っていようが、間違っていようが関係ない。その仮説の証明が、何かの経済的な価値を生むかどうかも関係ない。

単に面白そうだから、自分がいかにその仮説に夢を持っているのか、その夢に一緒に乗ってもらうためだけにお金を出してもらうよう、自分の持っている夢をプレゼンテーションする能力というのが学者に求められる。

自分はこんなことを考えています。仮に正しかったとしても、多分1文にもなりません。もちろん仮説自体が間違ってるかもしれません。それでも、この分野にはこんな話題があって、自分が研究することで、この世界はこう変わります。この夢に、一緒に乗っかりませんか?

今、研究費を振り分けているのは、偉い学者の集団だ。大体、同業者が同業者の夢を査定すること自体が不健全だ。

今後プレゼンテーションの対象になるのは、民間の人だ。それはライブドアの社長でも、マネーの虎に出てくるような金持ちの人でもかまわない。

夢には専門分野なんか関係ない。未来に夢を持っている人、自分の頭の中の仮説を、心から楽しんでいる人は、知識の共有がなくても夢の面白さを伝えることができるはずだ。自分とは専門分野の全く違う人に自分の夢を語り、他人を自分の夢に巻き込める人こそが面白い仮説を考え、世界を押し進めることができる。

わくわく出来れば、正しいのかどうかなんて、後からでいいじゃないか。