病院の中の幽霊

ほんの10年ぐらいまで、病院というのは怖い場所だった。

幽霊の噂なんかどこの施設にもあった。

夜の病棟には、首から下のない患者が徘徊する。手術室のエレベーターの中で患者さんの悪口を言えば、エレベーターは霊安室のある階で止まる。天井から人の足、壁から人の手が生えるなんて日常茶飯事。夜中に医局でコックリさんを呼べば、調子の悪い日にはコインが踊って止まらない。

自分が医者になった当時は、そんな話題はまだまだ現役だった。入院初日から何かにとり憑かれる入院患者。あまりにも多く「出る」ので使われなくなった病室。いろんなものを「見る」看護婦さん。亡くなった患者さんは、その日の夜には必ずナースコールを鳴らす。魑魅魍魎の話には事欠かなかった。

病院というのは、もともとが穢れたところ、聖なるところ。特別な場所だった。

人が死ぬこと。人が生まれること。いずれも「ケガレ」に分類されるものだ。人が死んで、黄泉の国へ行き、また子供というのは黄泉の国から生まれてくる。病院というのは、黄泉の国への入り口。特別な場所だ。

病院に入って戻ってこなかった人は「ケガレ」を払うために葬式を行う。病院から出てきた人、退院した人は、「一度黄泉へ行って、生まれ変わった人」だ。だから退院祝いを盛大に行った。穢れた場所であり、聖なる場所であった病院というのは、本来普通の人は入れない、日常社会とは断絶した場所だった。

特別な場所で語られる言葉というのは、特別な力を持つ。言霊というやつだ。

例えば、「去る」「帰る」「出る」「終わる」「切れる」といった言葉は、結婚式という特別な場では使ってはならない。これらの言葉は、結婚式では忌み言葉になる。結婚式の食事で酒が「切れる」のは、非常に縁起が悪い。だから会場の人数分より遥かに多い酒を注文する。

病院では「寝付く」から、根のある植物は持ってきてはいけない。千羽鶴も、「下に向く」から、頭は折らずに千羽鶴を作るのがマナー。

特別な場所で生活する人の言葉というのも、また言霊が宿る。昔の医者の言葉には力があった。白衣の権威を作っているのは、その医者の知識や地位、尊大な態度といった個人にまつわるものではない。病院という場所の力だ。昔の病院には、たしかにそんな力が宿っていた。

病院の聖域性を作り出すには、「清め」の要素がいる。

ケガレというのは、伝染する。子供の頃にやった鬼ごっこは、鬼が触った子供は、全て鬼の側になる。鬼に触られた子供は、自分で元に戻ることはない。 だから、ケガレは日常社会に出してはならず、穢れた場所と日常の場所とを分離するためには、必ず何らかの「清め」が必要になる。

個人的な感想だけれど、日常生活空間と病院とを隔てていたもの、病院を特別な場所として認知させていたものは、病院のクレゾールの臭いだったような気がする。

気配というものを感覚するのは、つまるところ嗅覚だ。昔の病院というのは、どこに行ってもクレゾールのにおいが充満していた。病院から退院した人は「病院臭い」のですぐ分かったし、どんな子供でも、クレゾールの臭いがするところに行くと「ここは怖いな」とすぐにピンと来た。

病院の消毒にクレゾールが使われなくなり、病院内の空気が外と変わらなくなった頃、病院は特別な場所から親しみやすいところへと変貌した。

幽霊話はすっかり聞かれなくなった。同じ頃から医者のスキャンダル報道が目立ち始め、メディアはいいカモとして医者を叩くようになり、病院で働いていない、現場の空気を知らない医者がテレビで医療を語り始めた。

不思議なものというのは、それを笑い飛ばさず、「ある」ものとして面白がったほうが、生活が豊かになる。

病院の幽霊の話というのも、それが本当かどうかはさておき、医療者の倫理とか、モラルなどという一種の戒律として作用していた。霊の存在というのは、昔から病院で語り継がれてきたし、それには一定の効果があった。

見えないものを信じる人は、見えないものを「無い」とは考えない。見えないから「無い」のではなく、自分にまだ「見る資格ができていない」から見えないのだと考える。オカルトの好きな人の立場は、昔からこうだ。だから、オカルトを否定する人と、そうでない人とは決して分かりあえない(自分は小学生からの「ムー」の読者で、落合信彦の著作は全部真実だと信じている)。

何もかも「科学する」姿勢、あるのかないのか白黒をつけるという姿勢は、病院から見えない存在を追い払った。誰もが経験した心霊現象であった「亡くなった患者さんからの挨拶」は、「センサーの誤作動」などという無味乾燥な言葉に置き換えられた。

この10年、病院は「なにやら恐ろしい場所」から、単に「治療を受ける」場へと変貌し、超人的な存在を期待されてきた医者は、今は「その存在」ではなく「治療の結果」のみ神がかることが求められるようになった。

もちろんサービスがよくなることは間違った方向ではないと思う。それでも、病院がもはや特別な場所でなくなってしまったということは、社会から何か大事なものが失われたような気もする。

それがなんなのかといえば、世の中から「ハレ」の場所がまた一つ消えたということなのだろう。「ハレ」とは、普段と違う、非日常の特別なこと。反対語は「」。日常生活の継続のことだ。

人間は、日常の継続だけでは生きていけない。同じことの繰り返しでは、頭がおかしくなる。村の祭りや収穫、神社へのお参り。昔の人は、こうした「ハレ」の日を日常の中に入れることで、日常の継続をリセットしてきた。

現在の「日常」は、昔に比べれば刺激だらけだ。娯楽になるものは何でもある。そんな中でも、それが日常になってしまった人には、その継続だけでは満足がいかなくなる。日常の継続を断絶するには、やはり特別な場所に出向いて、「ハレ」の時間を作らなくてはならない。

幽霊の跋扈していた頃、病院は手軽にいける特別な場所、「ハレ」の場所だった。もちろん、特別な場所だからこそそんなに頻繁にいけるわけじゃない。それでも、そこに行くということは、日常の継続がリセットされるということだ。一度日常にリセットがかかれば、またしばらくは日常を継続できる。

クレゾールの香りとともに病院の幽霊は姿を消し、病院は気軽に通える治療施設となった。病院に行くということは日常の延長になり、通院日は「ハレ」の日ではなくなった。

病院には、病気になってくる人とは別に、病院が好きだから病院にかかる人というのが一定の割合で存在していた。そんなに頻回に来なくても大丈夫なのに、何かと理由をつけては病院に通ってくる。

病院に来ること自体が好きな人というのは、日常生活の継続に耐えられなくなって、自分の時間をリセットしたい人たちだ。現在では、何回医者にかかっても、「医者にかかる」という体験は、もはや非日常の体験にはなりえない。今では、毎日だって病院にいける。それでも、そういう人たちの需要を満たすことは、今の病院にはもはや出来ない。

今からクレゾールをまいても、病院に非日常性が戻ってくることは無い。

日常をリセットしたくて病院を頼っていた人は、今では新興宗教や占い、健康食品の購入といった、別の非日常に流れてしまった。

それでその人が幸せならば、それでもいいのだけれど、「元非日常空間の住人」としては、すこし寂しい。

みの○んたを信じて巨費を投じるぐらいなら、心カテでも受けたほうがよっぽど健全な非日常だと思うし、「中の人」しては、いまでもそれなりに神聖な気分でカテを握っているのだけれど…。