目線が見た景色

通勤途中の交差点で、車同士の事故があった。事故を起こした車は、 自分と同じ方向を走ってて、反対側からも、何台も対向車が走ってた。 向こう側から車来てるのに、その車はいきなり右折して、 対向車とぶつかってた。ちょうど交通安全週間だったからなのか、 交差点には蛍光色のジャンパー羽織った警察の人がいて、何か対策してた。

もちろん事故を起こした当人にしか本当のことは分からないんだけれど、 警察官が立ってなかったら、あるいは事故なんて起きなかった。

警察官という存在はあまりにも大きくて、ドライバーの目線が認識する風景を、 実際あるべき風景から大きくゆがめてしまう。

人の振る舞いが、認識される風景に与える影響は、本当はすごく大きくて、 その影響力に無自覚な人が無自覚に振る舞うと、もしかしたら危険な状況を 作り出してしまう。

吸引される目線のこと

建築物や道路が作り出す「本当の風景」と、目線が認識する風景との間に 「ずれ」が生じたとき、死角が生じて、事故が発生しやすくなる。

殺風景な建物の中に、交差点ひとつ。普段なら、バックグラウンドの風景は全く主張しないから、 ドライバーの注意は真っ先に対向車線の車に向かう。たぶん認識は、自分にとって危険が大きな順番で、 重要度がつけられる。最初は車。次に建物。たぶんだいぶ離れて、人間が「危険物」と認識される。

警察官は、人類なのに規格外の存在感。もしかしたらあんまり運転しない 人はそうでもないのかもしれないけれど、若気の至りでいろいろあった身としては、 警察官が道を歩いているだけで、注意力が変な方向に引っ張られて、認識の優先順位が揺らいでしまう。

取締りを受けたことのある人なんかは、警察官が交差点に立ってると、 もしかしたら警察官に、自分の目線風景を吸引されてしまう。 自分の車が進んだ先に見えるべき景色、対向車が突っ込んでくる反対車線の情景は、 警察官に吸引されて、認識の死角になってしまう。

新学期、子供が学校に通い始める季節になると、警察官が横断歩道の傍らに立って、 子供たちを誘導する。ドライバーは、警察官のおかげで横断歩道渡る 子供を認識できなくて、車を子供に突っ込ませてしまうような事故が起きる 可能性だってあると思う。ドライバーもまさか、「警察官がいたから子供が見えなかった」なんて 言えないだろうし。

安全な目線風景の作りかた

警察官という存在は、自らの左右に広がる風景を吸引して、死角を作りだす。交差点の角に立った警察官は、 だから対向車線と横断歩道を「吸引」して、そこに死角を作ってしまう。

警察官はこの場合、交差点の中心に台をおいて、その上で交差点の監督を行えば、 たぶんこうした問題は起きなくなる。そもそも車が右に曲がれなくなってしまうけれど、 右折する車が対向車線に入る頃には、警察官は視界から消えて、ドライバーは本来の風景の中で、 自らの注意力を配分することが出来るはずだから。

建築物とか広告看板なんかもまた、目線吸引効果が事故を生見出す可能性がある。 事故を起こせるぐらいの「吸引効果」を生み出せれば、広告屋さんとしては本望だろうけれど、 目線と風景との関係は、たとえば都市建築のデザインとステルス技術 みたいな形で論じられていて、目線の反射効果の低い、うるさくない建築デザインを行うことで、 建築物の生み出す閉塞感みたいなものを弱める効果が期待されている。

おそらくはこうした考えかたは、建物の目線吸引効果を減らして、 事故の起こりにくい、「安全な風景」を生み出すことにもつながりそうな気がする。

目線の流れと、警察官とか「うるさい」建築物とか、目線を吸引する効果を持った物体との 位置関係を何か理論づけて考えられれば、広告媒体を安全における場所であったり、 ある交差点に入ったとき、ドライバーが真っ先に見落としやすい死角を事前に 予測することが出来たり、いろいろおもしろいことが出来ると思う。

弱さを武器にする無邪気な人たち

峠道を走ってると、カーブの内側に車を止めてる人がいる。あれをやられると、 ただでさえ見通しの悪い峠道が、完全なブラインドコーナーになって、 何も考えないで走れたはずのカーブが、いきなりものすごく危険な道に豹変する。

峠走る人たちは、だからこんなやりかたを禁じ手にしてるはずなんだけれど、 そんなこと知らない、本来ずっと「安全な」運転してる人たちに限ってこれをやる。

彼らにしてみれば、安全運転していて、道路の傍らに「ちょっと」車を止めただけなんだろうけれど、 弱い人たちの無邪気な行動は、自分を取り巻く風景を、極めて危険なものにしていたりする。

声が大きな弱い人たちの振る舞いは、どういうわけだかとても目立って、おそらくは本来あるべき 風景を、いろんな形でゆがめてしまう。当然見えるべき何かを隠蔽して、避けられたはずの事故を 招いてしまう。

こういうのは無理矢理にでも理論化して、最初から常識として共有しないと、 「弱くて無邪気な人たちが生み出す危険な状況」は、いつまでたっても無くならない。

それが「強い人」でも「弱さを武器にする人」でも、何かの強度を持った人というのは、 きっと強度が生み出す歪みみたいなものを定量化できる。本来見えるべき風景を、 そこから再構築してみんなで共有できたら、交通とか政治とか、死角が作る 悲惨な状況は、もっと減らせるような気がする。