医療交渉のこと

医師向けの交渉マニュアルみたいなものが欲しいな、というお話し。

医師という人種について

冷淡で、尊大で、独立心が強い。たいしたことを話すわけでもないのに、出会ったその瞬間から、 「あなたの問題点は全て把握済みである」かのような態度を取って、間違えがあっても容易にそれを認めない。

医師という人種は、たぶんこんなステレオタイプを通じて、その人間性を理解される。

不測の事態が生じたところで、もちろん「不測」が許されるわけもない。 病院内では、医師にとってはあらゆる可能性が「織り込み済み」であって、 何が起きたところで、当然のようにそれに対処することを求められる。

前提を覆す努力は、たいていの場合、無意味なものになる。へりくだって、優柔不断な態度を取って、 対峙した患者さんに「僕分かりません」をいくら繰り返したところで、そうした態度が信頼につながることなどありえないし、 何か不測の事態が起きたとき、そんな態度は、医師を助けてくれない。

正面からぶつかりあった場合、病院内で白衣を着ている限りにおいて、 医師はだいたい9 割の確立で、対峙した相手を論破できる。医師はその代わり、 「間違えること」を相手が許してくれないから、交渉にわずかな瑕疵を残したそのとたん、 人生もろとも持って行かれる。

医療コミュニケーションを考えるときには、まずはこんな前提から始めないといけない。

リスクの取りかたは教わらない

医師はプライド高くて、プライドはしばしば判断を曇らせる。医師はだからこそ、 プライドを捨てる「べき」であるという論法は、間違ってはいないけれど、役に立たない。

丁寧な接遇だとか、へりくだった態度の講習会だとか、何の意味もない。 へりくだってみせたところで、ステレオタイプを書き換えることはできないだろうから。

自分達はリスクを取るのがお仕事なのに、「リスクのつかみかた」という、 ある意味最も大切なことを、自分達の業界では教わらない。

やりかたは、誰も書いてくれない。運がよく生き残った人達は、自分達がどうして 死なずに生きているのか、どうしてだかそれを言葉にしない。「真心さえあれば、 みんな分かってくれるよ」なんて、ベテランはしばしば、 何の解決にもならない「教義」を教えるけれど、それでは意味がない。

医師という生物は、一見強力だけれど、針の一差しで死んでしまう。 職業人として、極めていびつなありかたなのに、学校では、「医師たるもの正々堂々正面突撃」なんて、 ありようとはかけ離れたやりかたしか習わない。

教義の不在が崩壊を生んだ

病院でのトラブル、とくに医師-患者間のコミュニケーションに起因するトラブルの大半は、 医師側に、「交渉教義」みたいなものが備わっていない、学校で習わなかったことに起因する。

患者さん側から見た医療過誤というのは、だからしばしば、医師が勝手に、 逃げ場所のない袋小路に走り出して、唖然としている患者さんの目の前で、 その医師が勝手に自滅したようにしか見えないのだと思う。

相手と真っ向勝負になったても、たいていの場合は大丈夫だけれど、医師は一定の確率で敗北する。 一度でも、わずかでも敗北したら、医師はその時点で、その業界にいられなくなる。 自分達の職業は、だからこそ、真っ向勝負の状況を可能な限り回避するのが大切なのに、 みんな真っ向勝負のやりかた以外習わないから、真っ向勝負挑んで、自滅する。

誰かが「負け」れば、その施設には、「診たら負け」の空気が伝染する。それはそのうち「受けたら負け」、 「仕事したら負け」になって、行き着く帰結として、現場からは医師が引き上げる。

医療交渉の教科書がほしい

  • 「間違えてはいけない」状況で間違えないためには、頑張るんじゃなくて、間違える状況を避けないといけない
  • 「なんでこうしなかったの? 」なんて叩かれないためには、全部の可能性を予期して潰すんじゃなくて、 どう突っ込まれたところで、「こう考えていたんです」なんて、常に言い訳を用意できるやりかたを 考えないといけない

大学には、本物の心理学者もいれば、交渉のプロ、精神科の権威だっている。 大学病院という場所は、だから交渉ごとを研究したり、方法論を考えるうえでは、 たぶん社会の中でも相当に専門的な集団なのに、方法論は提示されない。

メディアだとか、司法への不信、あるいは患者さんとの信頼構築が難しくなったことだとか、 業界が荒れた理由はたくさんあるけれど、マニュアルの不在というものは、荒廃を加速したのだと思う。

「個々の対話を、特定の目的へとつなげるための営為」としての交渉のやりかた。
対話の失敗が、交渉全体の失敗に結びつくことを回避できるような、縦深性を持った患者対応のやりかた。

ベテランの人達は、大学ごと、施設ごとに、そんな医療交渉の教義を提示してほしいなと思う。 説得力のある、そんなやりかたを記述できる人がいる職場には、 まだまだたぶん、人が戻ってくるだろうから。