不便の谷というものがある

「便利」を目指して道具が進歩していく過程において、恐らくは最初のうちは、 道具に投じられた技術だとか、複雑さに比例して、ユーザーは便利を実感する。

ところが投じられた複雑さが、ある一定の閾値を超えると、今度はたぶん、 道具が複雑になるほどに、ユーザーの生活は不便になってしまう。

ゴールは見えているのに、そこに到達する手前に「不便の谷」があって、技術はしばしば、谷にのまれる。

ゴールは人間に回帰する

そもそも人権なんて言葉がなかった昔、当時の家政婦さんという存在は、 たぶん「人間」というよりは、今で言う「電化製品」みたいな立場であったのだと思う。

「人間という製品」は、掃除から洗濯、食事の世話から庭掃除まで、もちろん人間だから万能であって、 大昔の、人種差別ありありの上流階級が、ハイテク電化製品に囲まれた現代人の暮らしを見ても、 「どうしてメイドにやらせないのですか?」なんて、もしかしたら別の意味で驚かれるかもしれない。

「生活を便利にしてくれる道具」というくくりの中では、メイドさんというのは、 出発点であるとともに、たぶんゴールでもある。道具は人を否定するところから出発して、 便利を目指して複雑さをましていくほどに、人間へと回帰していく。

不便の谷が生まれる

「メイドロボットと暮らす未来」の出発点になるのは、たぶん使い捨ての食器と、 使い捨ての衣服なんだと思う。食器は全て紙の皿、衣服ももちろん紙製の、使い捨てのものにしてしまえば、 「食器洗い」と「洗濯」は、生活から追放される。

部屋のどこを探しても、もちろんメイドロボットなんていないけれど、使い捨ての食器と衣服は、 それを別の形で解決している。残念ながらたぶん、それで満足する人は少ないのだろうけれど。

道具に技術が投入されて、「便利」を目指して、それは進化する。

まずは水道や洗濯機が生まれて、さらに全自動食器洗い機だとか、全自動洗濯機が登場する。 道具をもっと複雑にすると、この延長線上に「お掃除ロボットルンバ」が来る。

道具の複雑さだとか、投じた技術の量を横軸に、顧客がそれによって受ける満足度を縦軸に取ると、 「使い捨ての皿」から始まった満足度のグラフは、恐らくは「ルンバ」ぐらいの複雑さに至るまで、 投じられた複雑さと、それによって得られる満足感とは、だいたい比例する。

ところがたぶん、投じられた複雑さがある閾値を超えたとたん、満足感はむしろ減ってしまう。 ちょうど不気味の谷現象 みたいな状況が発生する。

谷の向こうがわには、「完璧なメイドロボット」という未来が見えて、谷に怯まず、 なおも複雑で高価な、大量の技術リソースを道具に注ぎ込めば、グラフはどこかで上昇に転じて、 満足感は最大値を迎えるんだろうけれど、今のところはまだ、谷がどこまで続いているのか、 谷の向こう側は本当に存在するのか、やってみないと分からない。

道具を中心に生活が回る

東大のメイドロボ」が実用を目指したとして、 恐らくは「不便の谷」に落ちてしまうような気がする。

あの機械が、たとえば車3 台分ぐらいの値段になって、家庭に普及する日が来ても、 その動作は微妙に不完全で、なおかつ機械は高価で複雑だから、 恐らくはメイドロボットは、リビングのご本尊みたいになってしまう。

完成度の低い「リビングのご本尊」を中心にした生活は不便なんだけれど、 「これだけ複雑で、高価なんだから、顧客は満足しなくてはならない」なんて、 顧客はそれを我慢する。

高価で複雑化しすぎた技術は、恐らくはどこかで、高価で複雑であることそれ自体を根拠に、 ユーザーに利便性の自覚を強要する状況を生む。

こうした不便の谷に陥っている、あるいは陥りかけている技術というのは、 たぶんいろんなところに転がっているのだと思う。

不便の谷を回避する

「不便の谷」を回避する方法は、大雑把に3つ。

  • 機械をもっと高価でもっと複雑にして、不便の谷を力ずくで越える
  • チープデザインみたいな考えかたで、谷の手前で止る
  • あるいは、そもそも「便利」を目指さない

技師さんじゃないと分からないような複雑な呼吸器だとか、アラームだらけで 役に立たない、アラーム付き心電図モニターだとか、自分達の業界見渡しても、 複雑だけれど今ひとつ役に立ってない、でも複雑だから、なんかありがたそうに、 自らの居場所を主張して止まないものを、いくつか見かける。

こういう製品には、「後戻り」が許されるはずがないから、もうこのまま、 力ずくでの谷越えを目指すんだろうけれど、大変だろうなと思う。

不便の谷の越えかた、あるいは谷底を回避するやりかたには、業界ごとの、あるいは技術者ごとの センスみたいなものがあって、どこかにたぶん、谷を越えた技術もあるのだろうけれど。