成熟するとシンプルになる

技術が成熟する、ということは、求められる機能が、デザインへと包埋されていく過程なんだろうと思う。

ベテランは無造作に切る

熟練した外科医は、腕を上げるほどに、あたかもそれが簡単なものであるかのようにメスを動かして、 臓器を無造作に切っていくようにみえる。動作はたしかに簡単そうなんだけれど、 「じゃあ同じことをしてごらん」なんて言われても、簡単そうなのに、絶対に再現できない。

内視鏡の大家は、やっぱり簡単そうに、内視鏡を操作する。 上手な人の内視鏡は、最初からそれが当然であるかのように、 カメラはまっすぐ、目標に近づいていく。これを見るのとやるのとでは大違いで、 胃の「地形」はすごく複雑だから、まっすぐ進むのは難しいし、 そもそも自分がどこにいるのか、カメラを始めたばっかりの頃は、胃の中で道に迷ったりする。

手を動かすのは疲れる。手の動かしかたは、だからなるべく疲れないように、 同じ結果を出せるなら、なるべくシンプルな動作で済むように改良されていく。

「手のベテラン」が生み出す成果はシンプルで、真似するのは簡単そうなのに、 シンプルなの動作を身につけるには、ベテランと同じだけの経験が要る。

ジェット戦闘機のこと

コブラ」だとか「クルビット」みたいな、飛行機としてありえない挙動を実現してみせた、 ロシアのフランカー戦闘機は、それを可能にするために、小さな可動翼が追加されていた。

それは未来的でかっこよかったけれど、すごい機動が出来るようになった分、 機体はそれだけ、今までの戦闘機よりも複雑に見えた。

もっと新しい世代の戦闘機、アメリカのF-22 Raptor だとか、ロシアのMiG-29 (->追記:Mig-29 の設計年次はフランカーよりもむしろ古いぐらいという指摘をいただきました) なんかは、 そうした可動小翼は省略されて、外観はむしろ、今までの戦闘機以上にすっきりした、 子供が描く「戦闘機の絵」みたいなデザインになっている。

新世代戦闘機の見た目はシンプルだけれど、その挙動は今まで以上に複雑で、 空中で停止するとか、バックするとか、なんだかもはや、 それが飛行機であることが不思議に思えてくるような動きかたをする。

デザインはシンプルになったけれど、恐らくは何気ない曲面であったり、出っ張りであったり、 シンプルさの中には莫大なノウハウが隠れていて、その「シンプルさ」を 再現できるのは、せいぜいアメリカとロシアぐらいしか無理なんだろうなと思う。

洗練の結果としての単純さ

技術が洗練された結果として、たいていの場合、その技術を外から見ると、技術はシンプルになっていく。

成熟という営みは、求められる機能を達成するのに必要な複雑さを、 シンプルなデザインの一部として内部化していく過程であるとも言える。

自分達の業界で、たとえばがん治療のやりかたであるとか、抗生剤投与のやりかた、 あるいは診断という行為それ自体は、むしろ年々複雑になっていく。

覚えなくてはいけない数字だとか、同じ結論にたどり着くための計算量は年々増えて、 自分達の振る舞いは複雑になっている割に、その複雑さが達成したものは、 実感として、それほど多くは得ていないような気がしている。

このあたりの「実感できる複雑さ」というものが何なのか、未だによく分からない。

自分の視点が内側にありすぎて、シンプルなデザインという、系の外側からの視点を持てていないのか。
それとも世の中には、そもそも「複雑になっていく進歩のありかた」というものが厳として存在するのか。
それともまた、こうした複雑さというものは、老害が既得権にしがみついた帰結として、 毎年のように「改良」が付加された、汚穢みたいなものを見ているだけなのか。

「結果を見て判断する」やりかたは、鑑別の手段として有用なのだろうと思う。

名人の手術は成績いいし、昔の戦闘機と、最新の戦闘機と、勝負をしたら、 昔の飛行機は、たぶん最新型にかなわない。

年々複雑になっているように見える技術は、果たして「結果」を出しているんだろうか。。