サービスの考えかた

認知症の厳しい99歳のお年寄りが今入院していて、看護師さんがそのまんま、 「認知症が厳しくて大変です」なんてご家族にお話ししたら怒られて、 病棟で、「あの家族は厳しいから気をつけて」なんて申し送りしてた。

何かが間違ってると思った。

接遇向上のこと

看護師さん達は、「接遇向上」と称して、この数年、丁寧なしゃべりかただとか、 相手の目を見て、受容的な態度を取るだとか、サービスの向上を目指して、 医師なんかよりもよっぽど熱心に取り組んでる。熱心なんだけれど、どこかずれている。

「サービス」というもの、顧客に「理解」を販売する、医療みたいなサービスにおいては、 サービスの向上とは、すなわち印象から判断を削除して、事実をより分かりやすく、 予断を除いた形で提供することなのだと思う。

事実と判断とを峻別する

「その人が認知症であるか否か」をきちんと定義することなんて、そもそもできない。 極論すれば、あらゆる病気の診断は、「医師がそう判断したから」という以上の根拠を持てない。

熱を出した患者さんがいて、肺の中が喀痰と細菌で満たされているのが確認されても、 確実に断言できるのは、「発熱している」こと、せいぜい「肺の中に膿がある」ことぐらいで、 「肺炎である」というのは判断であって、断言できる事実にはなり得ない。

病名というのはだから、状況を判断する人の口から出るべきものだし、 「インフォームドコンセント」だとか、「病気を指揮するのは、サービスの受け手である患者さん自身である」 なんて立場を本気で貫こうと思ったならば、医療従事者の口からは、「病名」を出してはいけない。

判断はサービスに貢献しない

医療者が提供する「判断」というものは、恐らくはサービスに貢献しない。

医療従事者は、患者さんの目の前に事実を積む。患者さんはそれを見て、何かの判断を下して、 病衣はそれに従って動く。これが行われてはじめて、健全な主従関係が、 「従僕としての医療者」という、絵に描いた理念が実体化する。

「診断」のような、医療者側の判断を含んだ言葉は、本来はたぶん、 「事実の詰みかた」を工夫する形で、患者さんとの会話から回避されないといけないし、 そうした工夫を考えることが、医療従事者にとっての「サービス向上」なんだろうと思う。

99歳の、くだんの患者さんにしてみれば、一晩に6回以上点滴引き抜くだとか、 便こねした手を口に入れようとするとか、一晩中叫び通しで一睡もしないとか、 それは疑いようもない、看護師さんが観測した事実。

事実を重ねて、患者さんのご家族に「じゃあ、どうする」を考えてもらうのが筋であって、 「この人は認知症だから、そういう対応をします」をこちらからやると、 それをどれだけ丁寧な言葉で飾ったところで、やっぱりご家族は不快に感じる。

クソの山にバケツいっぱいの香水を振りかけたところで、それは「いい匂いのするクソ」にしかなれない。

「香水」を工夫しちゃいけないのだと思う。