答えを出すために規格を作る

解答しなくてはいけない問題が大きすぎて、どこから手を付けていいのか分らないときには、 まずはリーダーとして旗を振る人が、「規格」を作ってしまうと上手くいくような気がする。

電気自動車のこと

ちょっと前の「夢の扉」だったか、大学の先生が水素自動車を作っていた。

沼地にいる「水素生成菌」を培養して、砂糖から水素を取り出す実験を繰り返して、 最終的には「砂糖水で走る車を作る」なんて夢を語ってた。

番組終盤、その研究室ではたしかに「水素自動車」が走っていたけれど、 それは「貯めた水素で走る実験車」であって、水素生成菌は、あんまり関係なかった。 その人の研究を世に問うためには、動く車があったほうが説得力あるんだろうけれど、 「水素で動く車」それ自体は、すでにいろんなメーカーが作ってるんだから、 今さらそれを再発明したところで、なんだか道のり遠そうだった。

「次世代の自動車」には規格がなくて、燃料電池だとか、水素自動車だとか、 アイデアがひしめいて、誰も「解答」を知らない状態。現行のエンジンを改良するのか、 それともモーター中心にやっていくのか、そのあたりもまだ、何も決まっていない。

何も決まっていないからこそ、「当たり」を見つけた人が成果の総取りができるから、 世界中の研究者がこのテーマに取り組んでいるのだろうけれど、問題はすごく大きい。 「当たり」にたどり着くためには、エネルギーを作ること、動く車を作ること、 エネルギーを供給するためのインフラを整備すること、あらゆる問題に答えを出して、 その全ての領域で、自分達の優位を証明しないといけないから。

電池の規格を決めるべきだと思う

政府の人達が、次世代の自動車を本当に欲しがっているのなら、まずやるべきなのは、 「電池の規格」を勝手に決めてしまうことなんだと思う。

電池の大きさだとか重量、生み出さないといけないエネルギーみたいな規格が「これ」と決まったなら、 自動車メーカーは、その規格に沿った範囲でもっとも効率のいい自動車を設計できる。 電池の性能が多少変わったところで、自動車メーカーは設計を変える必要はないし、 自動車を作る人達は、とにかく「その電池で動く性能のいい車」を作ることに全力を挙げて、 電池の開発だとか、インフラの整備だとか、考えなくて済む。

燃料電池屋さんも、水素屋さんも、昔ながらの電池屋さんも、大きさと、 必要な電力が規格化されれば、今度はその範囲での設計が要求される。

どれだけ画期的なやりかたを思いついたところで、規格内におさまらなければ意味ないし、 だからこそたぶん、開発段階での選択枝は、相当に絞られる。将来的に技術が進歩して、 蓄電池の大きさの原子炉だとか、「電池サイズのハイブリッドエンジン」なんかができて、 それが市場を席巻したとしても、混乱は最小限で住む。大きさと、取り出せるエネルギーが 同じであれば、自動車メーカーは、「電池」を取り替えればいいだけの話だから。

充電スタンド」だとか「水素スタンド」みたいなインフラの問題も、 規格さえ決まってしまえば、それが商売になるのかどうか、実物なしで検討することが出来る。

「電池」の大きさと重さが決まれば、あとは電池寿命と輸送の問題で、 輸送コストを誰に負担してもらうのか、ガソリンスタンドの役割をどう置換していくのか、 規格さえ決まっていれば、ガソリンスタンドの人達がいきなり路頭に迷うような事態は避けられて、 インフラの置換も、穏やかに進めることができるはず。

規格は問題を切り分ける

解決しなくてはいけない問題が大きすぎて、どこから手を付けていいのか、 正解がどの当たりにあるのか、誰にも想像がつかないときには、とりあえず「これ」という規格を、 強引に決めてしまえばいいのだと思う。

今ある世界と、問題が解決された、次の世界と、規格というものは、 長くて暗い道のりに、とりあえず「杭」を打つ行為。

杭には意味がないし、杭をたどっていく道のりが、果たして最短なのか、最善なのか、 それは杭を打つ人にだって分らないだろうけれど、「杭は動かない」ことを前提に出来るのなら、 開発者は、杭の数だけ増えていく。それは最善ではないかもしれないけれど、 確実なやりかたではあると思う。

「救急が危ない」だとか、「とりあえずIT」だとか、自分達の業界が抱えている問題というのもまた、 なんだか相当に大きくて、大きな割にはアイデア無いし、保険診療は好き勝手出来ないから、難しい。

「医療の問題」という大きすぎる問題に、病院だとか政府、マスメディア、たくさんの「知識人」だとか「市民」 だとか、系の内外からいろんな人が意見するけれど、そもそもの「治癒」とは何なのか、 「問題が解決した」とはどういう状態のことを指すのか、統一しないから、まとまらない。

政府の人達が今やらないといけないのは、「ここから先は不可抗力」だとか、 「ここまで来たら治癒」みたいな規格をとりあえず決めて、「10年は絶対変えない」だとか、 それを宣言することなんだと思う。

そんな決定はベストではないし、恣意的に決められた基準のために割を喰う人なんかも 出てくるんだろうけれど、動かない場所が与えられると、そこを基準に発想を生む人も、また増える。

「何とかする」だとか「治す」なんて問題は大きすぎて、こんな時だからこそ、 一番偉い人達が、「規格」だとか「基準」を示すべきだと思う。