理想には情が足りない

大雑把に「理」と「情」というものがあって、情報の送り手と受け手との間で、 「理」と「情」と、両方が揃わないと、人は動かない。

情報の送り手が「理」と「情」両方を用意するときもあるし、提供のやりかたを 工夫することで、送り手は「理」を提供して、それに反応した受け手から、 「情」が引っ張られるやりかたもある。恐らくはその逆も成り立つ。

梅田望夫氏の書評を読んで、個人的に考えたこと。

書評のこと

企業家の梅田望夫氏が、書評を書いた。

たぶん氏にとってはとても大切な内容が書かれている本で、抑えた文体で内容をほめて、 「全ての日本人が読むべきだと思う」なんて書かれていた。

その文章に、あんまり肯定的な反応が返ってこなかったからなのか、 普段冷静な梅田氏が、珍しくいらだった調子で、Twitter に「はてなブックマークのコメントには、 バカなものが本当に多すぎる」なんてつぶやいていた。

こういうのは、自分自身の心の動きを記述することしかできないから、一般化していいのかどうかは分らないけれど、 「梅田氏の書評」を読んでも、その本を買おうとか、興味を持ったとか、心はあまり動かなかったのに、 「苛立っている梅田望夫」のつぶやきを読んで、「ああやっぱりその本は重要なんだな」とか、買いたくなった。

言葉のアフォーダンス

「理」と「情」と、大雑把に内容を分けて、恐らくは、理と情と、両方が組み合わさって、初めて人は「動こう」と思う。

言葉にも恐らく、「アフォーダンス」に相当する考えかたがある。

「全ての日本人」に向けられた、抑えた調子の、「理」の勝った文章は、 情報の送り手と受け手との間に、「理」しか共有されないから、響かない。

梅田氏が「苛立った自分」を見せて、恐らくは情報の送り手と受け手と、お互いの関係の中に、 そこで初めて「情」が出現して、自分を含めてたぶん多くの人が、「買わなきゃ」なんて動いた気がする。

ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ

漫画「アキラ」に出てくる金田の台詞「ピーキーすぎてお前にゃ無理だよ」というのは、 乗りこなすのが難しいバイクを自慢した言葉だけれど、その言葉を聞いた人達は、 自らもその「ピーキーすぎて無理な」バイクを乗りこなせる理由を必死に探して、 自分もまた「乗りこなせる人間」であることを証明しようとする。

キャタピラーが作っているごつい腕時計だとか、パタゴニアが作っている極地用途のジャケットには、 街中使うには過剰な機能がたくさんついている。メーカーは、特殊な人達に向けた「理」を、 過剰な機能に体現させているけれど、その過剰さはまた、「そうなれない多くの人」から、「情」を引き出す。

恐らくは町の人に向けた「ぬるい」製品を作ったその時点で、 ああいうブランドからは「情」が失われて、人気が無くなってしまうんだろうと思う。

理を詰めた文章はつまらない

「理」を積み上げて動くことを説得されたとき、たぶんその人は、 自分自身もまた「理」を詰むことで、断る理由を探そうとする。 「情」を伴わない説得は、だから「無情に」断られてしまう。

マスメディアみたいな「全て」をターゲットにしたメディアは、 売り上げという目標に特化したが故に、「情」に特化した立ち位置にたどり着いた。

「皆さんは…」なんて、丁寧に呼びかけるような調子で書く初心者のblog は、つまらない。

「皆さん」を対象に、「理」の勝った文章を書いたところで、情報の送り手にも、 受け手にも、「情」が発生する余地がなければ、その人の文章は響かない。 文章を書く人が、マスメディアの「悪いところ」を回避しようとするあまりに、 「理」を積んだ、資料だとか数字だとか、公平な立ち位置みたいなものを重視すればするほどに、 その人の文章は、誰の心をも動かない、単なる文字列になってしまう。

「理」の勝った文章で読者を引っ張ろうとするならば、「あなたたちにはまだ難しいかもしれませんが」だとか、 「これから書くことは分ってくれる人にだけ伝わればいいんですが」とか、そういう前置きを置いたほうが響く。

そうすることで、文章は、「分っている人」と、「分りたい人」、両方の読者には「情」を喚起されて、 その人が発信する「理」が、読者を動かす。

個人的には、数字を使わないようにしている。

統計が手元にあったら「統計がある」としか書かないし、数字が具体的に示されているものであっても、 その数字を読んで自分が感じたこと、「いっぱい」だとか「遠く」、「大きな」だとか、 全てを「情」で表現することを心がけている。

それは突っ込まれ防止の、 細部を曖昧にするやりかただったのだけれど、恐らくそんなやりかたは、 自分が書いた文章に「情」を重積して、読者に「響かせる」効果もあるのだと思う。

「理」のレイヤから「情」は見えない

「理」をいくら頑張っても、「情」の不在は隠蔽されない。むしろ悪くなる。

DOS の土台の上にGUI をくっつけた、昔のWindows に似ている。

DOS なんて無いんだよ」なんて、見栄えのいいウィンドウで DOSをどれだけ巧妙にそれを隠蔽しても、 事態は改善しない。隠蔽を強めれば強めるほどに、OS は「いきなり固まる」ことが増えて、 その原因は隠蔽されて見えないから、ユーザーには手出しできない。せっかくのGUI も 使いにくさばっかりが目について、ユーザーは「使えない」なんて、そのうち離れてしまう。

梅田望夫氏は、理想家なのだという。

理想という言葉には、「情」が存在しない。「理」を想う人達は、どこかで「情」を表現することをためらっているようにも見える。

「理」によって「情」の記述を試みる学問、心理学みたいなものはどこかずれていて、 その一方で、たとえば扇動の技術であったり、広告の技法であったり、怪しいのだけれどたしかに「効く」、 結果につながるやりかたは、秘伝的に語り継がれていたりする。

「情」という存在を、「情」の言葉で記述するやりかた、大昔、 科学がなかった時代の宗教家のやりかたは、もう少し見直されていいような気がしている。