モデルガンのこと

自分がモデルガンで遊んでたのは、マルゼンがエアーソフトガンを発売して数年後から、 マルイの電動ガンが発売されるちょっと前まで。

火薬で遊ぶ「モデルガン」はまだまだ元気で、エアガンは、スプリングを手で圧縮しないと撃てなかった。 ガスでブローバックするガスガンだとか、電動ガンなんて、まだ誰も考えなかった時代。

モデルガンという小さな文化が、プラモデルという、もっと大きな文化に呑み込まれた頃のお話し。

エアガン以前

金属モデルガンがまだ真っ黒だったのは、昭和48年の規制まで。

亜鉛合金でできたモデルガンは、火薬の反動が肩に来て、新聞にはときどき、 「ガンマニアの犯行」なんて、違法改造して実弾発射可能になったモデルガンが報道された。

表現規制法に反対する人達が憂慮する未来というものは、モデルガンが好きな人達にとっては、 すでに通り過ぎて来た道だった。

規制以降、手元の金属モデルガンは「違法」になって、銃口を鉛でふさいで、 黄色いペンキで塗装しないと所持できなくなった。

「ガンマニア」という言葉には、どこか犯罪じみたイメージがついて、モデルガン雑誌も 「ガンマニアでなく、ガンファンと自称しましょう」だとか、言葉狩りみたいになった。 規制に過剰に対応した、全然リアルじゃない新製品を、「実物じゃないことが一目で分るすばらしい工夫」だとか 褒めそやしたり、「リアルだ」なんてほめたライターを、別の雑誌が「けしからん」なんて叱ったり、変な時代だった。

モデルガンという趣味は、国家によって「マニア」になることが禁じられた趣味で、 古株の人達は、「マニアですね」なんて評されると、「私は違います」と否定する。

実物そっくりを目指したいのに、それが許されない中で、モデルガン界隈には、文化が生まれた。

「リアル」とは何か

「モデルガンが目指すリアル」というのは、「実物そっくり」とは違う場所にある。

見た目は実物と違っても、動作だけは実物そっくりを目指すやりかただとか、 実物と同じ形のパーツを使いながら、その実各々のパーツは、実物とは全然違った役割受け持っているだとか。

モデルガンは実物のイミテーションでしかないんだけれど、「そっくり」を目指すことをあえて拒否して、 「実物とは違う何か」から、「実物を抽象化した何か」だけを伝えるような、 そんなリアルさを意気に感じる文化があった。

自分が最初に買ったマルゼンのエアガンは、ちゃちな見た目ではあったけれど、 分解の手順なんかは実物を思わせた。動作もまた、実物と正反対だったけれど、 それでも引き金を引けば弾が飛んで、スライドは後退して、本物みたいにカートリッジが排出された。

実物とは全然違う何かを手にしながら、設計者の意図を汲んで、実物を想像する余地を楽しむ。 そんな文化は、トイガンの主流がエアガンの時代になっても受け継がれた。

MGC がM93R を出してから、時代はガスガン一色。

もはやカートリッジも無くなって、引き金を引いても、スライドはピクリとも動かなくなった。 「これでは単なる銀玉鉄砲だ」なんて声は当時からあって、93R は一種の踏み絵みたいなところがあったけれど、 みんなはそれでも、ロッキングピンが別パーツになっているところだとか、 部品の合わせかたが実物どおりだとか、実物とは違う何かから、実物を思わせる何かを見つけては、ひっそり喜んでた。

マルイルガーP08

プラモデル屋さんである「マルイ」が発売した最初のエアーガン、ルガーP08 は画期的な製品だった。

マルイは昔、モデルガンを販売していたことだってあったのに、 初めてのエアガンは、モデルガンと言うよりはプラモデルの延長で、 価格は安くて、プラスチックは薄っぺらで、銃を分解しようにも、「モナカ」みたいに 左右を貼り合わせるような、実物とは全然違う何かに仕上がってた。

ルガーはその代わり、外側の動作は実物そのまんまで、見た目は圧倒的にリアルで、高性能だった。

当時売られていた、何万円もするライフルよりも、マルイが出した2000円しない拳銃のほうがよく当たって、 よく飛んだ。なんだかバカみたいだった。

いろんな会社が追求していた「モデルガンのリアル」、実物を想像させる内部の動作だとか、 実物の「思想」みたいなものを引き継ぐ姿勢だとか、マルイのルガーにはそういうものは 一切無かったけれど、流れは決定的に変わって、各メーカーが暗黙のうちに課していた、 「リアルのお約束」みたいなものは、これ以降急速になくなった。

ホビージャパンの人達

プラモデル専門雑誌である「ホビージャパン」の人達が、別冊の形でモデルガンの専門誌を 発行したのも、この少し後の頃。今売られている「アームズマガジン」が創刊する2 年ぐらい昔。

モデルガンやエアガンを「改造」するだとか、「カスタマイズ」するやりかたなんていうのも、 モデルガン界隈の人達は、どこか「リアル」に縛られてた。

外見を止めないぐらいに改造したエアガンであっても、「もしもこれが実物だったら」みたいな お約束を引きずらないといけなくて、改造には制約が大きくて、「お約束」を外した改造は、邪道だなんて怒られた。

ホビージャパンの人達にとっては「モデルガンのリアル」なんてどうでもよくて、 プラスチックのエアガンは、大きなプラモデルでしかなかった。

プラモデル界隈の人達が持ち込んだ技術は圧倒的だった。「ちゃんと動作するガトリング銃を一から作る」だとか、 見た目がいびつな銃床にパテを持って整えて、あまつさえ木目を描いて本物そっくりにしてしまうだとか、 やりたい放題だった。

「自分で作るフルオートガスガン」だとか、ポリパテや歯科用レジンの固まりから、ライフルを一本 削りだしてしまうやりかたは、モデルガンでなく、プラモデル畑の文化。

新しい価値を受け入れる

小さな田舎の、世間と隔離されたムラ社会で、平和に「リアル」を楽しんでいたモデルガン業界は、 この頃からプラモデル業界の文化に組み込まれた。小さな村の隣に、ある日いきなり 高速道路と大規模なスーパーマーケットができて、それでもみんな、最初のうちこそ 伝統文化を守ろうとしたけれど、圧倒的な価格差と、力量の差に直面して、新しい価値を受け入れざるを得なかった。

安くて性能よくて、おまけに外観は本物そっくりなんだから、それはもう、文句を言う筋は全然無いんだけれど、 受け継いできた「流れ」みたいなものは断ち切られて、どこか寂しかった。

新しい価値を受け入れたメーカーは、「裏切った」なんて言われた。

真鍮削り出しのモデルガンを販売していた「ウェスタンアームズ」が、電動ガスガンのヤティマチックを 出したときも、「まさかあそこが」なんて声があった。ヤティ は優秀な銃で、 ガスガンなのに冬でもきちんと動いたし、改造すれば何百連射もできて、価格も安くて、 機能的にはとても優れていたのに、その「思想」はプラモデルだった。 何か裏切られた気分だった。

JACバトルマスターは「正し」くて、ヤティは「裏切り」、 アサヒファイアーアームズのM60ガスガンは「究極」なのに、 ガスガン最盛期に発売された、当時最強なんて噂があった、トイテックのキャレコは「邪道」。

メーカーに対する好みそのまんまでしかないけれど、分ってくれる人は分ってくれるはず。

普遍の中で文化を受け継ぐ

居心地のよかったモデルガン村には、「モデルガンの文脈」というものがあって、1980年代の終わり頃、 そこにもっと普遍的な、プラモデルの流儀が持ち込まれて、大成功して、モデルガンは大きく変容した。

マルイはこのあと、外側は本物そっくり、内部はまるでラジコンカーみたいな「電動ガン」を 販売して、電源さえあれば本物そっくりに動作するライフルは、すぐに世間の標準になった。

「北海道の職人が作る伝説の楕円断面スプリング」だとか、「命中精度高めるためにバレルをテーパーリーマーで削る」だとか、 モデルガンの、エアガンの文脈を引き継いだ「改造」は廃れて、モーターのパワーアップだとか、 ギヤボックスの改造だとか、雑誌にはなんだか、モデルガンの話とは思えない記事が増えて、 自分はその頃大学に入ったばかりでお金無かったから、モデルガンをあきらめた。

今のエアガン界隈のページを覗くと、自分が遊んでた頃に「最新型」だったライフルなんかが、 化石扱いされてたりして落ち込む。昔からの「思想」を引き継いだそのエアガンは、 あの頃たしかに最新型だったし、20年前のあの頃、みんなすごい技術だと興奮してたのに。

今は業界が成熟したのか、よっぽどマイナーな銃であっても、ネットを探すと、たいてい誰かが作ってる。 昔だったら部品から削りだして、苦労して、ようやくの思いで「動かないけれど実物に似た何か」にたどり着いたものが、 今はきちんとブローバックしたり、電動ガンとして普通に使えたり。

それは間違いなく進歩であって、「思想がない」とかうそぶいたって、部品の寸法だとか、 重量感だとか、外から測定できるあらゆるパラメーターは、今ある製品のほうが圧倒的に優れているのだけれど、 やっぱりどこか寂しい。

今自分がサバイバルゲームに参加する機会があったとして、技術も体力もないから、 足りない部分はお金でカバーするとして、選ぶとしたら、やっぱりSS9000 探してくるだろうなと思う。 たくさん売られていた、「思想」を引き継いだ数少ないおもちゃだったから、今でもたぶん、 おもちゃ屋さんの倉庫を漁れば出てくる気がする。

カビの生えたような昔のおもちゃに、アルバイトする大学生の年収を余裕で超えるぐらいのお金をかけて、 単発の、「お金のかかった種子島」みたいになった「思想」を担いでゲームに参加したところで、 たぶん電動ガン持った小学生に蜂の巣にされて終わるんだろうけれど、それでいいと思う。

「普遍の中で文化を受け継ぐ」営みは、たぶんそんなものだから。