舞台装置がプラットフォームになる

大きくなりすぎた問題に対して発生するかもしれない無関心のお話し。

新大統領のこと

新しい大統領を警護する人達は、今頃頭抱えてるだろうな、とか想像する。

オバマ大統領が劇的な勝利を挙げて、「負けた」感覚を味わった人は、たぶんすごく多い。

勝ったのがマケイン候補だったなら、年老いた、たくさんの財産を持っている人が今さら勝ったところで、 マケイン候補に「負けた」と思う人は、そんなにいないはず。「ああまたか」と絶望する人は いるのだろうけれど、絶望は、怒りや怨嗟には結びつかない。

勝った人が受ける恨みの総和は、その人が追い抜いた人数に比例する。

若い人が勝てば、年老いた人は「負けた」と思うし、移民が勝てば、昔からその国にいる人達は、「負けた」と思う。 年齢が若い、移民の息子であるオバマ候補は、スタートの時点から極めて不利な条件を背負っていて、 それをひっくり返して大統領になれたのだから、きっとすごい人物なのだろうけれど、 あの人がここに来るまでに「追い越した」人数も、また多い。

若い大統領の誕生は、だからアメリカが大きく変わるかもしれないけれど、 それと同じぐらい、「変わりたくない」人達が、大統領を傷つけようなんて、 ろくでもない計画立ててそうな気がする。

対物ライフル時代の要人警護

アメリカ軍がイラクで使っている対物ライフルは、よく使われるもので口径12.7mm、 大きなものだと口径が25mmぐらいある。米軍はこれを使って、建物に隠れる相手を 建物ごと破壊したりだとか、装甲の薄い装甲車のエンジンを狙ったりだとか、活用しているらしい。

対物ライフルは強力で、1km ぐらい離れた距離でも普通に狙えるし、 それぐらい離れていても、当たった人が真っ二つになってしまうぐらいの威力があるんだという。

威力がありすぎて、本来それは、人間を狙って撃つことは禁じられているのだけれど、 アメリカ国内でも同じライフルが購入可能で、グアムあたりでお金を払えば、日本人の観光客にも撃たせてくれるらしい。

要人を傷つける目的でこういう銃が使われると、それを防ぐ側は、相当大変な思いをすることになる。

最近の対物ライフルは、有効射程 2000m、最大射程 2400m。動画サイトを探すと、 レポーターの人が普通に 2300m 狙って的に当ててた。この距離はちょうど、 「本気を出したゴルゴ13」と同じぐらい。

追記:そこまで強くはないよというコメントをいただきました。ありがとうございました。

漫画「ゴルゴ13」は、主人公が 2000m という人間に不可能な距離を狙撃できるのが前提。 ゴルゴに狙われて助かった人はほとんどいないし、「ゴルゴが来る」なんて 事前に分っていたところで、警察には、半径 2000m の円周を全てカバーすることなんて無理だから、 ゴルゴは止められない。

漫画でも実世界でも、恐らくはそんなに変わらなくて、ヘリコプターを使ったところで撃つ前の狙撃者は 見つからないし、たとえシークレットサービスが要人の四方を囲んだところで、対物ライフルは コンクリートの壁ぐらい簡単に貫いてしまうから、「人の壁」などあったところで、役に立たない。

大口径の銃が人間に向けられて、狙撃用途に使われたのは、フォークランド紛争が始まりらしい。 イギリスの兵士を迎え撃ったアルゼンチンの軍隊が、50口径の重機関銃に狙撃用のスコープを載せて、 相手の射程外から狙い撃ったのだという。

イギリスには当時、この射程をひっくり返せる武器が存在しなかったから、 相手を迎え撃つために対戦車ミサイルを発射して、相手の機銃陣地ごと吹き飛ばすことで、 やっと戦いになったのだという。

アメリカ国内で、「大口径の対物ライフル」と「対戦車ミサイル」との応酬が始まれば、 これはもうテロリストが逃げ出すぐらいの大惨事になってしまうから、 大統領を警護する側の人達は、もちろん対戦車ミサイルなんて使えない。

恐らくはアメリカで要人警護を行う人達は、こうした事態を何年も前から想定しているのだろうから、 オバマ大統領の警備というのは、たぶん今までの考えかたの延長では為されないような気がする。

銃の発射速度が向上して、結果として「騎馬突撃」という戦いの基本理念が意味を失って、 「塹壕戦」という、新しい考えかたが生まれたように、銃の威力や射程が伸びて、 本物のゴルゴ13みたいな人を仮想敵に想定しなくてはならなくなった現在のシークレットサービスは、 たぶん今までの延長ではありえない、新しい何かに変貌していく。

物語を作る人達

当事者でない「読者」を想定した物語を作る人達、作家であったり、 あるいは「画を作る」マスメディアの人達は、分かりやすいステレオタイプを大切にする。

「威力が増した」みたいな、連続的な変化は伝わりやすいけれど、対抗する側の、ある種の 断絶を伴った変化というのは分りにくいし、それを伝えたところで、たぶんたいていの読者は喜ばない。

これから「大統領暗殺」みたいな本が作られるとすれば、大統領を狙う側は、 躊躇なく対物ライフルを選ぶことになる。相手が選ぶ武器が決定したところで、 守る側もまた、拮抗する火力を持った武器を手にする必要があるけれど、 舞台が街中である以上、「正義」にそれをやらせるのは難しい。

守る側があまりにも不利な、こんな舞台設定で物語を作ると、狙撃者が「撃った」時点で大統領が倒れなければ嘘だから、 物語を盛り上げようと思ったら、作家の人たちは、守る側の「撃たせない」戦いを主軸にせざるを得なくなる。

物語を引っ張る主役は、「狙撃者」と「シークレットサービス」みたいな銃を持つ人達から、 「スポッター」と呼ばれる狙撃を補助する人、目標を探す「目」の役割を担う人々へとシフトしていく。

物語は情報戦になる。予測される大統領のルート設定を巡る情報戦だとか、 攻める側と守る側、お互いの土地勘だとか、気候や風、温度に対する感覚みたいなものが、 狙撃の成功を左右する。

物語には強力な銃が導入されて、結局それは、「人間の物語」へと回帰する。

舞台装置はプラットフォームになる

お互いが扱う武器の火力が「決定的」過ぎるとき、物語を盛り上げようと思ったら、 作家はもはや、その銃を撃てなくなってしまう。

銃撃戦が幕間に入る物語は、盛り上がる。威力の強い銃で銃撃戦が描写されると、もっと盛り上がる。 ところがある閾値を超えると、銃はもはや単なる舞台装置ではいられなくなって、 いつしか舞台それ自体になってしまう。

ゴルゴ13 は、頼まれた狙撃はほとんど100% 成功させる。ゴルゴの腕前はすごすぎて、 他の登場人物との釣り合いが取れなくなって、漫画「ゴルゴ13」は、ゴルゴ自身の物語から、 「ゴルゴ13というルール」を取り巻く人々の物語へと変貌した。ゴルゴはただのルールであって、 「体調悪くて的を外すゴルゴ」だとか、「誰かと喧嘩して技と的を外すゴルゴ」だとか、 人ならあり得るそんな情景は、もはや誰も想像しない。

社会のいろいろな問題点を「舞台装置」として用いながら、作家は物語を紡ぐ。

ところが作家の手に負えないぐらいに大きくなった問題は、 もはや物語の舞台装置ではいられなくなって、その問題をプラットフォームにした物語を紡ぐための、 舞台それ自体となって、観客から想像の余地を奪ってしまう。

救急医療の問題なんかが、下手するとそうなりそうな気がする。

毎日のように運ばれてくる患者さんは、これはもう間違いなく現実のものだから、 人が連続的に減っていく中、現場はそれでも頑張ってはいるんだけれど、 問題はなんだか大きくなる一方で、解決は見えない。

人が圧倒的に足りていない救急外来の問題が、どこかで作家の手に負えないぐらいに大きなものになってしまうと、 恐らくは救急の問題は、「問題」から「前提」へと変貌する。

前提になった問題は、視聴者に「そういうものだ」という、一種のあきらめを要請する。 産科とか、救急とか、マスメディアの人達がいろいろアイデア出して、それでも問題は大きくなる一方で、 彼らがどこかであきらめたとき、自分達が今抱えている問題は、もしかしたら全ての人から 見捨てられてしまう、そんなことを考える。