「幸福の名人」を探す方法

知識と時間が結びつく

空から食べ物が降ってくるのを期待して、1 日中口開けて空を眺めている人は、そのうち飢えて死ぬ。

農業の知識がある人は、同じ時間を使って畑を耕す。運がよければ雨が降って、そのうち作物が取れる。 運が悪ければ、作物は枯れて、そのひとはやっぱり飢えて死ぬ。

知識と時間が結びつくと、運がよければ生産が発生する。運が悪ければ、何も生まれない。

時間を上手に使えば、そこから何かが生まれるけれど、リスクを取らない限り、 「何か」は絶対生まれない。

価値は観測されて発生する

「もの」は生産されて、交換される。

価値は人が集まる場所に発生して、他者からの観測を受けることで確定する。

誰かに観測されて、価値が確定するまで、生産されたものの価値、 その人が投じた時間の価値は、誰にも決められない。 ものが生産されたその時点では、それは形を伴ったリスクに過ぎない。

価値はリスクに宿る。

その人がどれだけ勤勉に働こうと、どれだけ身体を酷使しようと、 価値のほとんどは、その人が「これを作る」という判断に、 その時取ったリスクそれ自体により決定されてしまう。

畑を耕した人も、山で猟をした人も、みんな生産している。あるいはたぶん、天を仰いで雨乞いした人も。 雨を降らせた人は、雨の所有権を正当化するのが難しいかもしれないけれど、それをやり遂げて頑張れば、 もしかしたら卑弥呼になれる。

ものを持ち寄って、お互いそれを観測して、市場が生まれる。そのうちみんな、 もっといいものが欲しくなって、「価値」と「生産」は、分割されて、「お金」と「消費」 という道具が生まれた。

消費せざる者喰うべからず

お金というものは、確定された価値であって、形を持ったリスクである生産物は、 「消費」を受けて、その価値が確定される。

お金を使う、「消費」という行動もまた、リスクと価値との交換だから、 「リスクを取る」という言葉を使うと、「生産」と「消費」は、区別をする意味がなくなる。

「働かざる者食うべからず」は、受け入れやすい考えかただけれど、恐らくは同時に、 これが真ならば、「消費せざる者食うべからず」も真実として成立する。

リスクを取らない人、判断を行わない人は生産できないから、そのうち飢えて死んでしまう。

誰もが「消費」を行わない世の中は、村中の人が天を仰いで「食べ物下さい」なんてお祈りする光景に ちょっと似ている。祈りにリスクはないけれど、村中の人が畑を放り出して祈った村は、 やっぱり飢えて滅んでしまう。

誰もが「消費」を行わない社会と、誰もが「生産」を放棄する社会は、リスクの前に等しく滅びる。

採算と消費の幸福論

幸福になりたいから、みんなリスクを取る。「生産」や「消費」は、リスクを「幸福」に変換するために生まれた道具。

物々交換の昔、「生産」が目指した幸福とは、「ものがたくさんある」状態だった。 豊作だとか、豊漁であることそれ自体が、そのまま幸福の定義になった。

物々交換から貨幣が生まれて、「消費」が目指す幸福は、「いいものをより安く」へと変化した。 いいものを安価に供給する人のところにはたくさんの貨幣が集まって、貨幣をたくさん集めた人は、 たぶん「人を幸福にするのが上手な人」であるはずだった。

安価で効率のいい商品を大量に販売した「勝者」は、たしかに正しいことをしたけれど、 恐らくはたぶん、安価に大量に作られた商品を買った消費者は、それだけでは幸せになれなかった。

リスクを取って、本来みんな何をしたいのかといえば「幸福になりたい」のであって、 各々がリスクを取って、生み出した価値の集まる先は、「幸福の名人」でなくてはならない。

「消費」の方法論で「幸福の名人」を探すのに行き詰まって、「投票」が生まれた。

「政治」とは、他の手段を持って継続する「生産」や「消費」の延長。

「生産」と「消費」、そして「投票」は、全て「幸せの名人」を探すための道具であって、 本来はたぶん、「リスクを取る」という言葉の前に、お互いの区別は無意味になる。

「嫉妬の最小」と「価値の最大」

「投票」という道具が志向したのは、社会の嫉妬を最小にするやりかた。

政治の人達は、いろんな嫉妬を最小化する方法を演説して、大きな支持を集めた政府は、 ときどき屍の山に「労働者の天国」なんて看板ぶら下げて、人はやっぱり、まだ幸せには遠かった。

「投票」の次に来る道具、「投資」というものが目指した「名人」は、「社会の財の総和」を最大にしてくれるような人。

「投資」は相当に効率よくて、恐らくは技術的にも改良されたから、「投資」は「投票」よりもずっと正確に、 「財を増やす名人」を見つけ出すことができたけれど、名人は案外、みんなを幸福にするのが下手だった。

お金が増えた格差社会は、たしかにお金が増えたはずなのに、やっぱりなんだか幸福度が増えなかった。

「通信」という道具

「幸福の名人」探しは終わらない。

「生産」「消費」「投票」「投資」の次に来る道具は、恐らくは「通信」なのだと思う。

不景気の時代、いくら刺激をしたところで、好きこのんで「消費」や「投資」をする人なんていないだろうし、 「投票」は、政府の中の人が嫌がってる。

誰もがリスクを取らなくなった村は滅ぶけれど、今は「リスクを取らない」状態が見えにくいから、 恐らくは意識的にせよ無意識にせよ、リスク取らないで「祈って待つ」人が増えている。

世の中の人が少しずつでもリスクを取って、それをどこかにいる「幸福の名人」に集めるために、 「通信」という道具、インターネットを有料化するといいような気がする。

昔みたいにあらゆる「ダウンロード」が有償化すると、たぶん大きな経済圏が生まれる。

恐らくは全国民猛反対するだろうけれど、これをやると、 映画の無圧縮動画をWinny なんかでやりとりするようなヘビーユーザーは排除されるだろうし、 そうでなくてもほとんど全ての国民はネットを使うだろうから、莫大な税収と、社会を回るお金が発生する。

お金の行き先が今ひとつはっきりしないけれど、一部を国がつまんで、残りを権利者に分配すれば、 恐らくは今まで「無償で」公開することを余儀なくされていた著作者が、けっこういい思いできるような気がする。

儲ける気になれば、トップページに100 MB ぐらいのクソ重い画像を置いておいたりすればいいんだろうけれど、 そういうページは排除されるし、何よりも「有償化」は嫉妬心を拡大するから、 ブラックリストはいち早く公開されて、そうした人の努力にもまた、「有償インターネット」は お金で報いることになる。

「通信」が志向する「幸福の名人」は、かなり直接的に、「人を幸せにするのが上手な人」に なるような気がする。

莫大なトラフィックを稼ぐニュースサイトの管理人とか、有用な情報を教えてくれるエロゲソムリエの人達だとか、 人気サイトが提供するコンテンツは、多かれ少なかれ、それを見る人達を「幸せ」にしているだろうし、 そうした人達はたぶん、ネットワークを介して、どこかにいる「幸福の名人」につながっている可能性が高い。

「有償」は面倒だけれど、有償だから、みんな自分のクリック一つにリスクが生まれて、判断の機会が発生する。

ネットワークにつながった全ての人が、わずかずつリスクを持ち寄って、「クリック」を介して判断と思考を集めれば、 どこかにいる「幸せの名人」は、こんどこそ見つかりそうな気がする。