道具としての読書

電子化された文章というのはやっぱりどこか読みずらい。

ちょっと調べるだけならともかく、何かを読んで自分の文章を書くだとか、 まとまった、記述された知識を吸収して、それを自分の仕事に生かすだとか、 得た情報を、道具として利用しようと思ったら、やっぱり製本された本が欠かせない。

電子時代の読書のありかたと、抜き書きの効果について。

読書というコミュニケーション

手で持てること。書き込めること。ページを折れること。 パソコンには、製本された本が持っている、こうした感覚要素がまだ足りない。

ディスプレイに映し出された文字を追っかけるだけの電子媒体と、本を読むという 体験それ自体がイベントになる読書と、パソコンという道具が持つ「帯域」は、 昔ながらの本に比べて、まだまだ狭い。

恐らくは人と本との間には、視覚を含めたいろんな感覚が動員される、一種のコミュニケーションが成立している。

本は人に情報をもたらすけれど、人もまた、書き込んだり、ページの端を折ったりといった行動を通じて、 人から本に、知的なアプローチを行っている。

読者の行動が加わったそうした本は、 もはや単なる文字列ではいられなくなって、読者がその本に投影した文脈であるとか、 ページごとの重み付けであるとか、新品の本とは全く異なった「何か」に変貌している。

感想文の正しさ

「感じたままを素直に書きましょう」なんていう読書感想文のやりかたは、 道具を志向した読書の役には立たない。

本を道具として役立てようと思ったら、作者が本にした情報を、自分の文脈で 使いやすい形に取捨選択、編集して、持ち運びやすく、参照しやすい形に 作り直さないといけない。

読書感想文のやりかたは、読書という行為を通じて、作者が伝えたかった文脈を 効率よく拾い出す練習。大事なのは作者の文脈だから、 読書感想文はしばしば、「自分の体験に引きつけて書きましょう」なんて指導がされる。

自分の体験を重ねても、その文脈は作家のものだから、 どれだけすばらしい読書感想文が書けたところで、恐らくそこからは、 「すばらしい本を読んだ自分」という肩書き以上のものが得られない。

権威として輸入した文脈は、実生活で利用できない。

作者がたどり着いた境地がどれだけすばらしいものであったとしても、読者は作者になれないし、 作者と同じ体験は共有できない。

作者の文脈はだから、利用するならば無批判に受け入れることしかできなくて、 体験が共有できないが故に、受け入れた文脈が、自分を取り巻く実情と合わない部分が出てきたとき、 それを改訂して、状況に合わせて運用することができなくなってしまう。

読書感想文を書くのに大切なのは、「文脈」と「共感」だから、本とのコミュニケーションは必要ない。 読書感想文を書くならば、本は電子化されても、それでも十分役に立つのかもしれない。

抜き書きの効果

国語の先生の意図とは異なるかもしれないけれど、 「感じたままを素直に書きましょう」という読書感想文のやりかたよりは、 「面白そうなところを抜き書きして、それをつなげて、短くて面白い文章を作りなさい」という 課題を出したほうが、実用的に本を読むやりかたが身につくと思う。

本を読んで、あとからblog に何か書こうと思って、面白そうな文章だとか、エピソードを抜き書きする。

抜き書きされた、箇条書きされた単文を眺めると、あれだけ面白かったはずの文章が、 何か輝きを失った、陳腐な文章に変貌していて、びっくりする。

文脈から切り離された文章は、しばしばその力を失ってしまう。

面白さは文脈に依存する。抜き出した文章の面白さを別の誰かに伝えようと思ったら、 読者はだから、自分の文脈で文章を運用して、抜き書きした文章に、 再び力を与えないといけない。

抜き書きした文章の語尾を治して、順序を入れ替えて、どこかで自分以外の読者を意識しながら、 その工程は要するに、読者と作者との、文脈のせめぎ合い。

「面白い抜き書き」を作る作業は、だからけっこう頭を使うし、読者が作者に「敗北」すると、 それは本当に、ただの抜き書きになってしまう。抜き書きを並べるだけのことだけれど、 それが上手に為されると、抜き書きが意味する内容は、もとの本とは異なってくる。

道具としての読書

いわゆる感想文を書くときに注目する場所と、抜き書きを面白くまとめたいとき、 あるいは実用的に本を読むときに線を引く場所とは、ずいぶん異なってくる。

「面白い抜き書き」を書こうと思って本を読むときには、最初に何となくその本を読んで、 その本に記述されたエピソードを反芻して、まずは自分なりの文脈を作り出す。

本は「作者の文脈」に最適化された配置になっているから、今度はそこに自分の考えを投影して、 線を引きながらもう一度読む。

線を引く場所は、作者の考えかたを書いた場所ではなくて、 むしろ自分の文脈に合致した「悪しき例」みたいな場所であったり、作者が自分の論を補強するために 引用した、具体的なエピソードが多くなる。

本に書かれた文章は、読者の文脈に合わせて個人化される。

その抜き書きは万人向けのものにはなり得ないし、そこから導かれる結論もまた、 しばしば作者の意図とは異なってしまうけれど、「個人化」という工程を経た本は、 あとから何かを書いたり、あるいは読書を通じて、自分の考えかたを変えていく上では、 たぶん作者に「共感する」以上に役に立つ。

おまけ:抜き書きと感想文のリスト

感想文: 作者の文脈に依存して、自分の体験を記述したもの。

抜き書き: 自分の文脈にそって、本の文章を並べ直したもの