機関銃の社会史

機関銃の発明が、戦場にもたらした影響について論じた本。南北戦争から、第一次世界大戦初期の逸話。

歴史経過

手回し式のガトリング銃は1862年、マクシム型機関銃は1884年、ブローニング機関銃は1892年に、それぞれ発明された。

南北戦争1861年-1865年。すでにガトリング銃が活用されていた。

ヨーロッパのアフリカ攻略もだいたい同じ頃。ヨーロッパの軍隊もまた、 発明された機関銃をアフリカ大陸に持ち込んで、その威力を十分に把握していた。

第一次世界大戦が始まったのは、1914年。

機関銃は、第一次世界大戦以前から広く用いられ、その威力は軍隊の誰もが知っていたにもかかわらず、 ヨーロッパの軍隊では、機関銃の重要さが認識されなかった。

19世紀の士官達は、戦場は、あくまでも人間が主役であって、個人の勇気や一人一人の努力が 勝負を決するという信念に固執していた。機関銃は、普通の小銃の射程が伸び、 発射速度や、弾丸の初速が速くなった程度の代物で、戦場の勝負を決するものは、 依然として銃剣での攻撃や、突撃であると信じられていた。

戦争の産業化

ガトリング銃を発明したガトリングは、こうした武器が大部隊の必要性に取って代わり、 結果として、戦闘や疾病に苦しめられる人の数は大幅に減るだろうと考えた。

実際には、機関銃は戦場における決定的な武器となり、もちろんますます多くの兵士が殺された。

南北戦争以前の戦争では、どの国の軍隊も、財政的、技術的な不備による制約が著しかった。 実際に戦える兵士は、軍隊の中でもごく一部で、予備役はさらに少なかった。 特定の戦闘で、十分な数の敵を殺せれば、それが戦争における決定的な勝利へとつながった。

南北戦争では、両軍は互いに持てる力の全てを尽くして戦う必要があった。 特定の戦闘が、戦争全体の勝利に貢献する割合は減り、兵士は南北戦争以前と違って、 単なる消耗品に過ぎなくなっていた。

兵士個人の能力に代わって重視されるようになったのは、一人でも多くの相手兵士を殺すための、 資材面での能力だった。

「一つの戦闘で決定的な勝利を収めれば戦争に勝つ」という時代は南北戦争で終わった。

貴族士官の時代

南北戦争が終わって10年経った1875年の時点で、イギリス軍の士官は、貴族と紳士階級によって占められていた。

士官の18%は貴族、32%は紳士であり、近衛連隊のような軍隊では、この割合はもっと高かった。状況はフランスやドイツでも変わらなかった。

士官の多くが貴族出身であった結果として、彼らは産業の時代に追いつけなかった。 社会的に孤立していたため、戦争に対する彼らの考えかたは、前世紀から変化がなかった。

貴族士官にとっては、誉れ高き突撃こそが戦いであり、 ただの機械でなく、人間こそが戦場の支配権を握っていると信じられていた。

1862年には機関銃が作られ、1880年には小銃に弾倉がつくようになり、歩兵の火力は向上した。 徐々にではあったものの、たとえ何人でかかろうと、兵士が遮蔽物のない土地を突進することは不可能になっていった。

アメリカでは、南北戦争の時点でこのことが明白になっており、兵士は塹壕にこもるようになった。 多くのヨーロッパ人士官は、たとえ南北戦争を見たものでさえ、それを軍隊の堕落と見なし、 ヨーロッパの戦場では、同じことが繰り返されることは無いだろうと考えた。

  • 1875年、イギリス軍の将校は、「士気の上がった精鋭部隊によって支えられた前線は、 現存するいかなる火器を持ってしても事実上攻略不可能である」と話している
  • プロイセンの軍人が南北戦争で亡くなった兵士の遺体を調べたところ、刺傷を負った者はほとんどいなかったのだという。 銃剣突撃が戦闘の勝敗を決するケースは、皆無といわないまでもごくまれで、 もはや空想の中にしか存在しないと結論された。しかしこうした調査結果は、士官の方針を変えることはなかった
  • 1899年の、陸軍大佐の日記。「今日は敵陣の襲撃について教わった。だいたいが20人ぐらいの正体に分かれて前進する。 教練は堂々としたもので、肩先をあわせてぴったり一列に並んでいく。あれでは突撃ラインに近づく前に全滅してしまうだろう」
  • 第一次世界大戦直前の 1913年になってもなお、フランス陸軍ではこう言われていた。「フランス軍は、その伝統に立ち返り、 今後は攻撃以外の方策を認めない。あらゆる攻撃は、意を決してひたすら攻め、銃剣を振りかざして 敵陣に突っ込み、敵を全滅させるものでなければならない」
  • ドイツもまた、1899年に作られた歩兵軍規が、1914年まで受け継がれていた

騎士道精神

南北戦争の段階で、もはや全く役に立たないことが分かっていたにもかかわらず、軍部は騎兵に固執していた。

1907年のイギリスの騎兵訓練教本には「小銃はたしかに役に立つが、馬の早さによって生み出される効果、 突撃の魅力、刃の恐怖といったものの代わりにはならないことを、原則として認めなくてはならない」と記述されている。

1904年、イギリスの将軍は、近代戦争での剣や槍の効果を否定的に論じた評論家に反論した。

「小銃手の勇気と狙いを狂わせるのが、携えている武器ではなく、小銃の弾をものともせず、 猛スピードで、抗いがたい迫力で突撃してくる兵士達という精神的な要因だということを、 彼は完全に見落としている」

最初の塹壕戦は、対戦開始直後、1914年に始まった。

ドイツ軍が最初に、塹壕を掘って機関銃を据え付けた。この防衛線を突破できないことが分かると、 今度は連合軍が塹壕を掘った。騎兵や歩兵の突撃による、 移動を主とする戦争の時代はここで終わり、火力が戦場を支配するようになった。

この状況は3年以上続いたが、最高司令部はこの事実を認めなかった。

当時の連合軍司令官は、こんな言葉を残している。

「戦闘は、小細工や策略を弄して勝つものではない。勝利は最高の道徳心を見せる司令官とともにあるだろう。 彼は、自軍の負傷者にたじろがず、敵の予備兵力を使い果たさせ、闘志と回復力を耐えられなくし、前線が破られるところまで追い込む。 そして勝者は無抵抗のうちに進軍し、敵の首都で講和を指令することができる」

何万人もの兵士が亡くなった1915年に入っても、兵士の訓練といえば、行進と銃剣突撃だった。 塹壕の掘りかた、襲撃のしかた、有刺鉄線の張りかた、機関銃の操作訓練などは、原則として行われなかった。

人間中心主義の終わり

機関銃の歴史は、「人間」が戦場の主役から排除されていく歴史となった。

それは単純に、「小銃の発射速度が速くなった」という変化でしかないけれど、 発射速度という、量的な、連続的な変化は、戦術だとか、戦場における兵士の立場だとか、 戦場のあらゆる場所に、質的な、決定的な断絶を伴う変化をもたらした。

「連続的に変化し続ける何か」は、どこかのタイミングで、あらゆるものに決定的な断絶をもたらす。

連続してきた過去にしがみついて、断絶の先が見えない人が指揮を執った組織では、 しばしば現場の兵士が破滅的な被害を受ける。

いろんな場所に応用できる話だと思う。