手の汚しかたを考える

何らかの望ましい習慣に、確実な履行を期待しようと思ったならば、それを行ったことによる報酬よりも、それを行わなかったことによる不利益が明らかになる仕組みを作るとうまくいく。

手洗いは大事

病院において、手を洗う習慣は、とても大切なものであるとされる。手洗いは本来、当然のように「必ず行われるべき」習慣なのだけれど、当然なされるべき何かが、「面倒くさいから」なされないことはよくある。

以前に読んだ、チェックリストの効用を説く本においても、手洗いを病院スタッフに励行してもらうためにチェックリストを活用する事例が取り上げられていた。感染症に対する考えかたの進んだ米国においても、手洗いを徹底させるためにそうした工夫が必要だったということは、逆に言えばたぶん、手を洗わないといけない状況で、つい手を洗わずに次のステップに進んでしまう人が、やはりそれだけ多かったということなのだと思う。

手を洗うことによる効用を説いて、その効果がはっきりと誰の目にも明らかになるよう、統計的な手法を駆使して手洗いの効果を証明して、シンプルで効果的なチェックリストを用意してもなお、恐らくは手を洗わない人は洗わない。やるべきことはシンプルで、徹底すればその効用が明らかであっても、「ご褒美」では人は動かない。

汚れた手は洗われる

病室のドアノブを触ったり、患者さんを診察したりしたあとは、手を洗う必要が生まれる。見た目にはたぶん、手はそんなに汚れていないし、この状況で「手を洗おう」と連呼されても、手を洗わない人はゼロにならない。

最近はパウダーレスの手袋が増えたけれど、病院で使う手袋の内側には滑りをよくするための粉がたくさんついている。手袋が必要な手技を終えると、手は粉で真っ白になって、それをそのまま放置する人はとても少ない。粉まみれの手は気持ちが悪いから、みんな流しに駆け寄って、まずは必ず手を洗う。

利得をどれだけ説明しても、案外人は動かない。罰則を厳格にしても、やっぱり人は動かない。ところがたぶん、「それをやらないと気分が悪い」状況に置かれた人は、まず必ずといっていいほど動き出す。「患者さんを診察したら手を洗う」を徹底させるのならば、「患者さんを診察するといやおうなしに手が汚れる」仕組みをつくると、もしかしたら上手くいく。

たとえば患者さんを診察したら、看護師さんあたりが有無を言わさず、医師の手に小麦粉を振りかける。そうなるともう、手を洗わないと何もできないし、粉だから、徹底的に洗わないと気持ちが悪い。冗談のような風景だけれど、結果として手は確実に洗われて、「手洗い」が目指した効用は達成される。個室ベースの病院であったのならば、ドアノブを触れたら手にインクがつくような仕組みを作れば、患者さんを診察して、その部屋から外に出た医師の手は、いやおうなしにインクまみれになっている。このまま次の動作に移ることはできないだろうから、医師はどこかで手を洗うことになる。

金券選挙のこと

「何もしないこと」が許されるような状況を作ってしまうと、もしかしたらたいていの人は何もしない。何かしないと状況が動かなくなるようなルールを入れると、簡単だけれど切実な何かが、ようやくまともにまわるようになる。

選挙において、投票率は高い方が、一応は望ましいはずだけれど、広報にお金をかけても、投票率はなかなか伸びない。

法律の問題はさておき、投票用紙を「金券」にすると、投票率が向上するのではないかと思う。たとえば投票用紙に1万円という値をつけて、選挙に来た人は、もれなく1万円が渡されるような仕組みを告知する。莫大な原資は税金由来で、これは要するに、選挙前に選挙権を持った人達の財布から各人1万円を引き抜いて、「選挙に来てくれたら、もれなく1万円をお返しします」と告知することに等しい。

税金のおさめかたは人それぞれだけれど、その地域に住んでいる人は、ある日いきなり、政府から「1万円の損失」を押しつけられることになる。その代わり投票所に行けば、その日のうちにそのお金は取り戻せる。

単なる報酬では、人を動かす力は少ない。「俺の金返せ」という思いは、恐らくはたくさんの人を突き動かす。「投票は大事です」では役に立たないし、「投票所に来るとお得なことがあります」でもまだ足りない。「あなたは今、1万円損しました。取り返したいのならば最寄りの公民館、あるいは学校へどうぞ」と損失を明示されて、初めてたぶん、たくさんの人が動き出す。

ユーザーを悪役にしない仕組み

同じ手洗いの励行であっても、「僕の手をもっときれいにしよう」と、「きれいだった俺の手を返せ」とでは、手を洗う人の気持ちはずいぶん異なってくる。

利益を明示してみたり、報酬を提示したり、あるいは罰則を設けるやりかたは、手を洗った人を善人に、手を洗わなかった人を悪者にしてしまう。手を使ったら無条件で手を汚すルールは、手を洗う人を等しく被害者に、そのルールを作った誰かが悪役として叩かれる側にまわることになる。誰もが同じ「手を汚された被害者」という立ち位置におかれるからこそ、確実な履行が期待できる。

自分がマニュアル本を書いたときには、「可能な限り主治医の手を動かさない」ことを、一つのポリシーにしていた。

主治医が自ら手を動かして、血液ガスを採血すれば分かる項目があったとして、それをたとえば、CTスキャンを技師さんにお願いして、採血を看護師さんにお願いすることで同じ結果にたどり着けるのならば、「自ら手を動かして動脈採血」よりも、「指示2回」のほうが主治医の負担が少ない分、そちらのやりかたを優先して記載した。

勤勉な作者が書いた本は、記載されたやりかたに従えなかった読者を怠け者だと断じてしまう。個人的には、これはよくないことだと考えていた。

読者と作者とを取り囲むグループの中で、作者が一番怠惰な人間として文章を書くことができれば、読者はみんな、作者よりも勤勉になれる。作者がそれでなんとかなっているのなら、読者はもっと勤勉なのだから、なおのことどうにかできる可能性が高くなる。

「きちんとやれば結果は明らか」なことであればなおのこと、「きちんと」やることを前提にしたプランを作ると、「きちんと」できなかったたくさんの人を悪者にしてしまう。「きちんと」やることの効用をどれだけ説いたところで、履行確率は一定以上に上がらない。

ルールはたぶん、「怠け者」に作らせたほうが上手くいく。