参考書を雑誌化してほしい

これからの参考書が、電子書籍の形式を目指していくのなら、参考書本体を出版するだけでなく、その参考書に対する様々な識者の「突っ込み」を、雑誌の形で提供できたら、きっととても面白い。

電子書籍は便利

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルや、寺沢先生の「研修医当直御法度」みたいに、ある程度有名な、ユーザーの多い研修医向けのマニュアル本を、電子書籍として雑誌化してほしい。

原本を電子化して販売するのと同時に、編者の先生が、異なった施設で働くベテランの先生がたに、原本に対する「添削」を依頼する。販売されている原本データに対して、いろんな先生がたの「俺ならこうやるね」や、「この疾患の鑑別診断なら、これが入っていないとおかしい」みたいな突っ込みを、月替わりで読むことができたら、それはきっと面白い。

紙のメディアでそれをやると、「時刻表」になってしまう。毎月のように改訂された、先月と少しだけ異なるだけのマニュアル本が、本棚に大量に並ぶことになる。同じ本が12ヶ月分、本棚に12冊並んだら単なる冗談だけれど、「本棚に並べようがない」という電子書籍の欠陥は、「同じ本の様々なマイナーバージョンをいくらでも重ねられる」利点でもあって、これは活かさないともったいない。

専門家の目線は面白い

昔マニュアル本を作ったときには、同じ分野を記述した参考書を、何冊か並行して読むことが多かった。いくつかの本を読むことで獲得した、ある分野に関する「こうだろう」という偏見は、それをまとめて本にするときに、ベテランの先生がたにレビューを依頼する段になって、しばしば「それは違うんじゃないかな」と真っ向から否定されたりした。これはすばらしく面白い体験だった。

売れている、定評のある書籍というものは、それを読むことで納得が得られるからこそ、読者が「こうだろう」という一定の態度を獲得しやすい。読者によって共有されたそうした偏見は、「その月の突っ込み担当」に選ばれたベテランの目線とぶつかることになる。偏見を獲得することは、その分野に対する暫定的なベテランになることでもあって、「単なる読者」として専門家の意見を読むよりも、「暫定的なベテラン」としてそうした意見とぶつかったほうが、体験として何倍も面白く、恐らくは勉強になるのではないかと思う。

自身の考えかたを誰かに添削されたり、突っ込まれたりすることは、同時にその誰かを理解することにもつながる。権威が自ら文章を手がけることと、すでに出版された本に突っ込むことと、テキストの量でいったら前者のほうが圧倒的に多くても、読者はもしかしたら、後者を通じるほうが、その権威の考えかたを、より近く理解できる可能性がある。

大人の世界の大人げない争い

ずいぶん昔、大人数を集めた血管内治療のライブデモンストレーションがあって、手技も佳境にさしかかりつつ、難しい症例に苦心している術者の先生をねぎらいながら、司会者がパネリストの先生に意見を求めた。術者の先生も、パネリストの先生も、重鎮と言っていいベテランだったけれど、パネリストの先生は、「私だったら、デバイスを全部引き上げて、一からやり直しますね」なんて身も蓋もない突っ込みを入れて、会場が沸いた。昔はいろいろ熱かった。

あの空気で手技を続けたデモンストレーターの先生の胆力も相当なものだし、何よりもお互いの信頼がなければ、「身も蓋もない空気」というものは作ることができないのだろうけれど、何かを学んで習得していく上で、そうした空気はとても大切なものになる。

学術方面の参考書はそういう意味で、まだまだ楽しんで読まれる余地がたくさんあって、同時にたぶん、もっと「楽しむ」ことで、学習はずっと効率的なものになる。

ある参考書を学んでいく中で、読者にはもしかしたら、作者の考えかたをそのまま丸呑みしていいものなのかどうか、しばしば判断できない場面が訪れる。突っ込みの入った参考書、あるいは突っ込む人が毎月変わる、「最新の突っ込み」が出版社から配信される参考書は、学習という体験を、より深いものにしてくれる。

たとえば聖路加国際病院の研修医マニュアルが電子化されて、「聖路加のマニュアルを沖縄中部病院的な目線で読む」回があったりしたら、大笑いしながら勉強できるのではないかと思う。大人の世界だから、真っ正面からのたたき合いにこそならないだろうけれど、文末のまとめかたや、行間のちょっとした表現、あるいは「書けなかったであろうこと」を想像しながら読む参考書は、きっと面白い。

本からはまだまだお金が汲み出せる

「識者同士のプロレス」は、常に面白いコンテンツとなる。ネット空間にはところが、権威がつながる機会こそ多いけれど、「リング」や「観客席」に相当する元テキストが全然足りない。特に学術参考書は、やはり出版されているものを購入しないと始まらないことが多くて、だからこそ、本は本として電子流通させつつ、定期的に「行間のコンテンツ」が入れ替わるようなやりかたで、参考書を雑誌化してほしい。

プログラマの人達は、お互い使い慣れた言語を叩き合う。ゲハ板の人達は、お互いが信じたゲーム機を持っていて、相手のハードに激しく突っ込む。争いは何年も前から続いていて、言語もゲーム機も、素人目には変わることなくそこにあって、それなのに、あの人達の突っ込みあいは、部外者が眺めても何年でも楽しめる。他の業界であれをやらないのは、いかにももったいない。

医学教科書は改訂される。昔と今とで記載の異なる場所はたくさんあるにせよ、作者が同じなら、根っこの考えかたはそんなに変わらない。考えかたの異なった誰かは、別の考えかたに基づいて、同じ分野で別の教科書を書いたりもする。

同じ場所に、異なった考えかたに基づく何かが複数あったら、その状況はすでにコンテンツの母であると言える。準備は万全、リングはそこにあって、レスラーはリングに上がって久しく、お互いずっとウォームアップを続けながら、戦いの準備はずっと昔からできていて、観客はそれを楽しみに取り囲んでいるのに、ゴングを鳴らす人は誰もいない。

本はきっと、まだまだいくらでも面白くなる余地がある。