ハイパーリンクの読書体験

新しいメディアを広めるためには体験の変化が必要で、変化を実感させるために必要な機能というものは、案外地味なものが役に立つ。

CTスキャンの昔

画像の電子閲覧システムを導入する施設が増えたけれど、昔はもちろん、レントゲンと言えばフィルムだった。単純写真なら1枚だけれど、CTスキャンの情報量は莫大で、フィルムにはたくさんの断面画像が並べられて、読影するのに知識がいった。

CTスキャンは人体の断面で、頭の中で立体を再構築できると、フィルムから得られる情報量はそれだけ増える。フィルムに並んだ断面画像を頭に取り込んで、そこから元の立体を想起するには解剖に対する理解が必要で、フィルムの昔、CTスキャンの脳内3Dレンダリングができるのは、読影に慣れた専門家に限られた。

自分が学生だった頃、将来のCTスキャンは、3次元映像になるのではないかと想像していた。CGの技術が進めば、断面画像を眺めるのではなく、最初から立体の形で画像が提示されるようになるのだろうと。PCの力にそこまで期待できなかった昔、CTスキャンを立体化するために、アニメ用のセルフィルムにCT画像をいちいち手書きでコピーして、それを1cmごとに重ねてみたり、知識のない人間が理解に到達するために、いろんな試みが行われていた。

当時描いた「理解の未来」は立体だったけれど、実際に普及して、現場を大きく変えたのはスクロールだった。

電子閲覧システムが普及して、フィルムで一覧する必要があったCT画像は、モニター画面に一つの断面画像を表示しておけば、マウスホイールをくるくるやるだけで、断面画像が入れ替えられるようになった。モニター画面でCTを閲覧するときには、目線を動かさずに画像だけを入れ替えられる。ただそれだけの変化が、画像の理解をずいぶん容易にしてくれた。

立体を立体として理解することは、要するにある断面の上下に何があるのか、頭の中で想像できることに等しい。想像は、以前ならば専門分野の勉強が必要だったけれど、今はもう、マウスホイールをわずかに転がすだけで、その先にある何かがすぐ見える。こうなるともう、本格的な解剖の知識がなくても、臓器の理解が容易にできる。

フィルムで一覧させるのと、マウスホイールを回すのと、自分にとって「電子」が変えたのはそれが全てなのだけれど、ほんのわずかなその変化は、フィルムの昔を忘れるのに十分な変革をもたらした。

リンクには張りかたがある

たとえば歴史物の電子書籍があったとして、文中に出現する年号をタップすると、そこから年表に飛べる機能があったら、楽しみかたがずいぶん変わると思う。

ある歴史物語があったとして、歴史の素人と、歴史の専門家とでは、たぶん文章に対する態度が異なってくる。歴史の素人は、物語を追いかけるのに一生懸命で、その年代に他の国では何があったのか、あるエピソードがこれから先に何をもたらしたのか、知識がないから想像できない。歴史の専門家が歴史物語を眺めるときには、たぶん全世界の歴史をある程度脳内で概観しつつ、目の前で語られる歴史を追いかける。

素人と専門家とを隔てているのはバックグラウンドの知識であって、歴史年号が目に入るたびに全世界の年表を閲覧できれば、素人読者でも、専門家の歴史視点を追体験できる。これだけのことでも、恐らくは読者の体験は異なってくる。

電子書籍にはいくらでも情報を詰め込むことができるけれど、情報の量それ自体は、読書の体験を変える効果は必ずしも大きくないような気がする。ハイパーリンクは便利な道具で、莫大な量の情報を容易に扱うことを可能にしてくれるけれど、読者の体験を変えようと思った場合には、張りかたを考える必要がある。

恐らくはリンクというものを、専門家が持っている想像力の原資に張ることで、読者の体験を変えることが可能になる。CTスキャンなら、専門家の原資は「次のフィルムを予測できること」だし、歴史の本なら、専門家の原資は「年表を想像できること」になる。今目の前で閲覧している画像から、次の画像へ簡単に移動できることも、ある年号を触ったそのとたん、年表に移動できることも、専門家は同じことを頭の中でやる。一覧できるフィルムを丁寧に眺めても、あるいは年号を目にするつど、巻末の年表を参照しても同じことではあるけれど、その手間を省けることが、体験を大きく変える。

読者はどこまでも怠惰になる

palm の昔、まだ非力だったPDAしかなかったあの頃すでに、あらゆる情報を電子媒体で持ち歩くことは可能だったし、無数に公開されているアプリケーションを選んでインストールして、自分だけの携帯デバイスを作って楽しむこともできた。

palm はあの時代、iPhone が成し遂げたことを事実上全て達成できていたのに、palm は世間の風景を変えられなかった。

iPhone にできて、palm にできなかったことはといえば、「同期を省くこと」であったのだと思う。palm は非力で、その代わり、親PCとその都度同期することで情報をやりとりしていた。今のスマートホンが実現している、電話回線を通じた情報のやりとりを実現するために、インフラに投じられたコストは莫大だけれど、同期というほんの一手間が省略できたことは、恐らくはその投資に見合った成果をもたらした。

派手な変化は必ずしも必要なく、メディアの新しさを印象づけようと思ったら、地味な変化で十分な効果が得られるし、派手さはもしかしたら邪魔ですらある。その代わり、ユーザーがその変化に到達するための経路は、極限まで短くする必要がある。

最後の1クリックをゼロにする努力が、恐らくは体験を一変させる。CTフィルムの昔、CTの撮影装置をおいた部屋に歩いていけば、モニター画面とトラックボールで画像を閲覧することは当たり前のようにできたのに、そこに行く手間を惜しんだが故に、変革は体感できなかった。「電子が変えた」体験というものは、病棟までモニター画面とLANの回線が引かれたことで達成できて、レントゲン室までの数分間がゼロになって、自分たちの生活スタイルは大きく変わった。

それが電子書籍なら、マウスクリックではもう遠すぎるのだと思う。文章を指でなぞって、メニュー画面抜きに、単語を触ればもうリンク先の情報に飛べるぐらいに手間が省かれて、はじめてそれが新しい体験として感覚される。

技術はすでに何年も前から存在していて、最後の1クリックを削ることに成功した人が、変革を総取りできる。

PDFは便利

文章と、レイアウトを通じて伝えたいこととを伝達可能で、なおかつハイパーリンクが使えるメディアと言えばPDFで、スマートホンの時代だからこそ、PDFはいいよなと思う。

PDFリーダーの性能次第だけれど、機種が異なっても、再現性はけっこう高くて、リンクを埋め込むと、そこをタップすれば任意の場所にページを飛ばせる。HTML でも同様の機能を備えているとは言え、複雑な表組みの中にリンクを埋め込むのがけっこう難しい。

昔出版させていただいた診断の本は、 最近ようやく、しおりの文字化けを回避しながらリンクを埋め込めるようになった。手元のスマートホンで文章を閲覧しながら、診断用途の表組みから、文中の病名から、当該箇所に1タップでの移動が可能になって、ここに来てやっと、電子媒体は紙の劣化コピーから自由になれたような気がしている。

ハイパーリンク前提の見せかたや、書きかたというものがあるのだと思う。分かりやすい本を書くには、専門知識を持たない読者に向けてかみ砕いた内容にする必要があるけれど、そうした読書の体験を通じて、専門家の目線を追体験するのは難しい。紙媒体で難しい本を作ると、それは単純に難しい本になる。そういう本を、1年ぐらいかけて辞書や百科事典を引きながら読み通すと、たしかに専門知識が身につくとは言え、時間がかかる。電子書籍なら、難しい文章を、指でなぞるだけで同じことができてしまう。

書籍はひとまとまりの知識を販売するメディアだけれど、アナロジーとしては「授業」であって、対話には遠い。検索やハイパーリンクが前提の書籍というものができるのだとして、それは「授業」から「対話」への、体験の変化を生み出すのだと思う。文章は難しいのに、あらゆる単語に当たり判定が埋め込まれていて、当たり判定を指でなぞりながらついて行くと、作者と同じ土俵でおしゃべりできたかのような体験が味わえるような。

palm の昔、いくらあれが流行っていたからといって、持っている人はやっぱり多くはなかったし、画面もそこまで大きくなかった。今は逆に、スマートホンを持っていない同業者のほうが下手をすると少数派で、誰のポケットを見ても、4インチ前後のディスプレイが収まっている。これはすごいことだと思う。

「それが使い物になる」という感覚は、最後の1クリックを削ることで発生する。ポケットにタッチパネルを持ち歩く今のスマートホンになって、ようやくたぶん、電子書籍の「最後の1クリック」が外されて、これからたぶん、様々な体験の変化が得られるのだろうと思う。