扇動の技術

バスが遅れる。待っている誰もがいらつく。不満のエネルギーが貯まる。

「バス会社はバスの増発を行うべきだ」という提案は、改革者のやりかた。 みんなが持っていた漠然とした不満は、現実的な提案へと落とし込まれる。 問題は解決するけれど、話はそれで終わって、せっかく集まった「不満」のエネルギーは散逸してしまう。

「これは何もバス会社のせいじゃない。全ては言葉もろくすっぽ話せない 外国人のせいだ。奴らを追い払わないといけない」というのが、扇動者のやりかた。 聴衆の不満を提案に変換しないで、たとえば「邪悪な外来者」のような、特定のテーマに翻訳する。

扇動者は、漠然とした不満を抱いた聞き手に対峙して、扇動者が持っている世界イメージを通じて、 聞き手の不満を実体化してみせる。

改革者はしばしば、特定の問題を解決するために、聞き手の努力を要求する。
扇動者は単に、「あらゆる抑制を取り払おう」という、聴衆の意志だけを要求する。

扇動のテーマ

個人が抱えている不満は様々で、一つとして同じものがないから、集中できない。 扇動を試みる人達は、聴衆が同調しやすいテーマ、分かりやすい世界イメージを用意して、 彼らの共感を引き出そうとする。

代表的なのは、こんなテーマ。

  • 外国人に対する援助が拡大されている。奴らに使うような無駄金や捨て金があるのなら、 政府はまず、それを我々自身のために使うべきだ
  • 外国人は、我々の金を取っていくばかりでなく、我々の仕事を奪ってしまった。 この国で生まれた人々は、亡命者が自分達の仕事を奪ってしまい、食べるものがない
  • ハリウッドの映画産業は、我々の子供達の若い精神に、唯物主義の思想を叩き込もうとする 共産主義者によって操られている
  • 贅沢な消費にうつつを抜かしているのはマルクス主義者、左翼国際主義者であって、 彼らは我が国のクリームを食い尽くし、我々にはミルクもバターもない生活を送らせようとしている。 自分達だけはシャンパンを好きなだけ傾けているくせに

聴衆は「おめでたい」人間

扇動の場においては、聴衆は常に「だまされた」人間であると定義される。

扇動者はある意味で、聞き手を侮辱することによって、追従者を獲得する。 彼らは聞き手が知識や力や勇気において、「敵」よりも劣っていることを指摘して、 扇動者が聴衆を必要としている以上に、聴衆もまた「指導者」を必要としているのだと訴える。

知的なコミュニケーションにおいては、たとえば教師と生徒との関係は、 教育という活動を通じて、お互いの距離は少なくなっていく。問題の解決を志向する改革者の 活動もまた、啓蒙を通じて、指導者と聴衆との隔たりが減らされる。

扇動においては、指導者と聞き手との距離はずっと変わらない。

聞き手が劣っているのは、一時的に「啓蒙されていない」からではなくて、 「だまされやすい人間」や「おめでたい人間」であるからで、 扇動者はしばしば、聴衆の人のよさを無遠慮に攻撃することで、彼らから永久的な支持を勝ち得る。

聴衆はだまされやすい、「善良な」人間である。しかし「指導者」の指摘を受けて、 彼らは今やそのことを知っている。指導者を得たのだから、彼らはもはや、 その知的劣等性、「善良であること」を隠す必要はなく、善良なまま在り続けることが出来る。

「善良な人間」が、今までだまされていた屈辱に対する責任は、もちろん「不道徳な敵」に丸投げされる。

「根治」を目指す

扇動者は、彼自身の世界イメージについて漠然と語る。そのことが逆に、 聴衆が持っている個々の不満に対して、「根源的な治癒」を 約束しているかのように聞こえる。

改革者は、社会が抱える問題を、それぞれ解決可能な大きさに切り分けようとする。 一方扇動者は、聴衆が抱える感情の全体性を問題とすることによって、 疾病の根源そのものを攻撃するのだとほのめかす。

扇動者は、本当は何の解決をも約束していないにもかかわらず、常に「戦い続け」ているように見える。

問題が解決してしまうと、扇動者の存在意義は消失するから、彼らにとってはむしろ、 聴衆の問題は、解決しないで定状状態を保ち続けるほうが望ましい。

強くて弱い「敵」

「敵」は世界の脅威となるぐらいに強力な存在であって、同時に扇動者の指導に従うことで排除が 可能であることが保証されなくてはならない。

「敵」と名指しされた存在は、だから本来的に弱い者であるにもかかわらず、 あえて危険な存在であることを装って、その弱さに仮面をかけている連中であると暗示される。

扇動者はだから、「本当に強い」人達を「敵」として名指しすることはない。その気になれば排除可能な 集団を探してきて、その強さを膨らませることで、邪悪な敵と対峙して戦う自分のイメージを作り出す。

「敵」の中にも、「いい」人間はいる。扇動者もそれを否定しない。

その代わり彼らは、「敵」自身の仲に紛れ込んでいる真の悪人に対してそれを排除しない、 不作為の罪を背負わされる。それはすなわち真の悪人に対する消極的な支持であって、 「敵」の連帯性や、集団としての責任は、扇動者にとって自明のものとして取り扱われる。

「敵」が、強くかつ弱いのと同様、扇動者自身もまた、強さと弱さを併せ持つ。

扇動者は「明日の秩序の番犬」になるべく予定された存在だけれど、 その一方で、今日の彼らは弱く、無力な存在であるとされる。陰謀を巡らせる「敵」に対して、 扇動者はいつ「攻撃」を受けるのか分からず、また攻撃され、その存在を貶められたりする。

扇動の時代

「煽動の技術―欺瞞の予言者」という本を読んだ。1950 年代の教科書だけれど、 紹介されているやり方は、今の時代でもそんなに変わっていない気がする。

本の中では、「敵」とされているのは「移民」であったり「ユダヤ人資本家」であったり、 あるいは「共産主義者」であったり。本の中で「操られている」政府を率いていたのは、 ニューディール政策を推進していたルーズベルト大統領だから、社会背景は全く違うけれど。

政治のやりかたは、たぶんずいぶん変わったのだと思う。

政府というのは、扇動者が叩く対象であって、扇動者と、扇動者に率いられた聴衆とによって、 「敵」が追放されて、政府は「正される」存在だった。今はむしろ、 この頃「扇動者」であった人が使っていたテクニックを、政府を率いる人達が普通に使う。

日教組を叩いて辞任した大臣とか、もしかしたら次の選挙は強いような気がする。

無茶なやりかただったけれど、あの人は辞任してみせたことで、「日教組に戦いを挑んで潰された男」、あるいは、 「真実を語ったがためにマスメディアに潰された男」という、大切な肩書きを手に入れた。

扇動者の前提が共有される限りにおいて、価値は逆転する。

メディアが支持率の低下を報道すれば、それは「敵の陰謀はそれだけ強力なのだ」と解釈されるし、 大臣が失言を叩かれて辞任すれば、それは「元大臣が敵の弱点を見抜いたから」潰されたことに他ならない。

元大臣の行動は滅茶苦茶なようでいて、「卑劣な日教組の手先が国民を騙している」という世界認識が 共有される限りにおいては、それが英雄の行動として聴衆に認識される。マスメディアだとか、知識人だとか、 あの人の行動を叩く人が増えるほどに、一方で、元大臣を支持する人も、増えていく。

元大臣にいきなり「敵」として名指しされた日教組側は、数字を示して反証を試みたけれど、 あれもまた、もしかしたら元大臣を利するような気がする。

きちんとした数字を出すほどに、「敵」の怪物性、手強さは強調されて、元大臣が作り出した世界イメージは強化される。 日教組側は、むしろ「自分たちにはもはやなんの権力もないんですよ」なんて、さっさと白旗挙げて見せたほうが、 たぶん元大臣にとっては、ダメージが大きいのだと思う。

デマゴーグの波に乗っかる人達を潰すためには、あの人達が前提としている「恐怖」それ自体を潰す必要がある。 反論して、戦って、扇動者を叩き潰したその時点で、扇動者の思惑はすでに成功している。

いろんな人達が「敵」にされている。

辞任した大臣の敵は「日教組」だし、自民党が「敵」として支持を集めようとしているのは、 公務員組織それ自体であったり、マスメディアであったり。恐らく彼らをまとめて「敵」認定するのは 得策でないから、これからは「一部の悪い公務員が」とか、「一部の売国メディア」だとか、 「敵」は分割されて、「いい敵」の不作為が、また政治家に叩かれる。

選挙になる前、自民党の人達は、たぶんマスメディアに対して敵対的になっていくような気がする。 「私はメディアに嫌われてるみたいだから」みたいな発言を閣僚が繰り返すようになったら、 それはたぶん、あの人達が「扇動」の方向に舵を切ったサインになる。

「扇動の技術」というのは、ネット界隈で誰かと遊んだりするときには便利なおもちゃで、 こうした技術で自分の文章をちょっと飾ると、議論が盛り上がる。

その代わり本来、こうしたやりかたは、「主役」が使うものではなかった。

この本が書かれた時代、扇動者は誰も、ルーズベルト大統領に打ち勝とうなんて思っていなかっただろうし、 扇動程度ではびくともしない政府があって、初めて扇動者の言葉は、聴衆に対して一定の説得力を発揮した。

社会にあって、揺るがない主役でなくてはいけない、本物の政治家がこうした技術を使う社会は、 なんか違う気がする。