製本の意味

「知的生産」のブームというのが80年代にあって、 「知的生産の技術」だとか、「スーパー書斎の仕事術」だとか、「超整理法」だとか、 学生だった当時、たくさん読んだ。

京大カードとか、袋ファイルだとか、あるいはそれらを綴じ込むためのシステム手帳だとか、 今までは、ただノートにまとめるだけだった「メモ」というものを、分離、独立、編集、検索可能にするやりかた。

ただそれだけのことが、当時はえらく画期的に思えた。

スーパー書斎の仕事術

当時はまだ新人だった山根一眞がいろいろ工夫して、それを本にまとめてたけれど、 あの人があの頃試した多くのことは、結局のところパソコンに収斂した気がする。

山根一眞自身もまた、早い時期からパソコン通信を取り入れて、 海外のデータベースに電話回線でアクセスするだとか、書斎にいながらにして、 電話回線一本を駆使して人捜しをしてみるだとか、本の中で「ネットワーク」のすごさを紹介していた。

パソコンはその頃から年々高性能化して、山根一眞自身も、今まで作ってきたアナログ資産と、 どんどん進歩するデジタル資産と、お互いのバランスを取るのに苦労していた気がする。

あの頃紹介されていた多くのやりかたは、パソコンを持っていることが当然の現在から振り返ると、 あらゆるデータを単なるテキストファイルとして扱うやりかたであったり、 パソコン上の「フォルダ」の概念を、そのまんま実世界で再現していたり。

袋ファイルの考えかたは、間違いなく時代を先取りしていたけれど、 パソコンがこれだけ普及してしまった現在、ああいったアナログなやりかたは、 全てデジタル文具に置き換わってしまった。

製本という機能

パソコンが、アナログメディアを置き換えていない部分があるとすれば、 地味だけれど、「製本」の効果なんだと思う。

山根一眞がアマゾンを取材した折だったか、取材に使った膨大な資料だとか、 本のコピーだとか、写真だとか、ばらけた資料をそのまま持って帰るのが面倒で、 これを地元の印刷屋で「本」にしたら、それが非常に使いやすかったらしい。

その頃はまだ、日本には安価な製本機が存在してなかったらしくて、 「製本というのはすばらしい知的生産の技術なのに、日本でそれをやるのが難しい」とか嘆いていた。 後年、安価な製本機が当たり前のように売られるようになった頃には、もうノートパソコンが 普通に買える時代に入っていて、製本機はなんだか、知的生産の流れからは取り残されたような気がする。

あらゆる「知的生産」ノウハウのご先祖みたいな本、「知的生産の技術」を書いた梅棹忠夫が 最初に使ったのは、「どんこ張」という、リング製本のノートだったのだという。

民俗学の現地調査に行くときは、A4版だったか、とにかくリング製本のノートをたくさん買ってきて、 それを上下半分に切断して、横長の、ちょうど「京大カード」と同じようなサイズのノートをたくさん作って、 それを未開の奥地に持って行って、フィールドノートとして使ったんだという。

日本に持ち帰ってきた大量のノートは、そのあとリングを外されて、たくさんのカードになった。

梅棹忠夫は、バラバラになったカードを広げて、思案しながら、 似かよった文化が記述されたカードを集めたり、新しい発想を、 カードの群れに投影したんだという。

「知的生産」は、たくさんの情報の断片を、断片のままに分離独立して、そこから何かを生む相と、 雑多な情報をとりあえず一つにしたり、あるいは最初は一つのノートとにいろんな情報を書き込んでいく相と、 情報は、お互いの相を行ったり来たりするものだった。

情報をより自由にすることは、これはパソコンの得意分野なのだろうけれど、 「雑多なものを強引にまとめて扱う」やりかたは、案外パソコンは苦手なのかもしれない。

本という制約

大学生の頃はパソコンもテレビもなくて、でもコピー機製本機だけは、個人で下宿に持ってたから、 いろんなものを「本」にして、ずいぶん便利に利用した。

製本機の機能、まだ整理もされていない雑多な情報を、とりあえず無理矢理まとめるというやりかたには、 カードが持つ、スマートな、パソコン上にそのままの環境を移行出来るようなきれいさはないんだけれど、 視覚的に「本」という形に固められた情報は、とりあえずやるべきことが見えてくると言うか、 「全体」が製本という行為によって決定されて、あとはひたすら削り出せばいいと言うか、 独特の、仕事の流れみたいなものが見えてくる。

「情報に制約を付加する」ことが、たぶん製本の機能的な意味であり、パソコンが未だに追いつけない、 「本ならではのよさ」みたいなものにつながる何かなんだと思う。

たとえば粘土の固まりを渡されて、「何でも自由に思うものを作っていいよ」なんて言われても、けっこう困る。 粘土は自由すぎて、自由すぎる情報を前にしても、発想が出てこない。

これがそのへんの石ころだとか、木片を渡されて、「これで何か作って下さい」なんて言われると、 石ころや木片の形だとか固さ、自分の工作技術なんかが、出来るものを大きく制約する。 とりあえず削れそうなところを削っていくしかないから、考える前に、 とりあえず「のみ」と「金槌」持って、後は叩きながら考えようかな、とか、 とりあえず体を動かし始めるような気がする。

全ての「仕事術」が目指すところは、要するに、「出来るだけ速く仕事を始める」ことにつきるんだという。

仕事の律速段階になっているのは、結局のところ、解決しなくてはいけない問題が発生して、 それに手を付けるまでの時間であって、「仕事術」というものは、とりあえず体を動かすための 閾値を下げているに過ぎないのだなんて。

引用や改編、編集みたいな自由度があまりにも高いデジタルデータは、自由であるが故に 制約が少なすぎて、制約が少ないから、「完成図」が拡散して、描けない。

重力があって初めて歩行が出来るだとか、手足が不自由な人を見ずに浮かべると、 水の浮力と抵抗が、その人の体に「泳ぎ」を創発するだとか。動作というものは、 環境に適応するために思考が生み出したものというよりは、 むしろむしろ環境という制約が、身体との相互作用を通じて、 意識に「教える」ものなんだという。

製本というやりかた、雑多な情報に適切な制約を付加することで、ユーザーが「完成品」を 生み出すことを助ける機能は、パソコン全盛時代、もう少し見直されてもいいように思う。