輸入された価値観のこと

ほんの10年ぐらい前まで、感染症の治療には「広く効く新世代抗生物質」を使うのが常識で、 自分が研修した病院みたいに、旧世代の抗生剤を大量に使うやりかたは、当時はまだ珍しかった。

大学に移ったばかりの頃、連れて行ってもらった学会で、肺炎治療のフォーラムが開かれた。 「難治性の肺炎を、新世代の抗生剤で治した」症例が報告された。

虎ノ門病院の先生だったか、会場から質問が出た。「わざわざ新しい薬を使うまでもなく、 伝統的なペニシリンを大量に用いることで、それは十分に治療可能だったのではないでしょうか ?」なんて。 同じような考えかたをする人がいて、ちょっと嬉しかった。

パネリストをやっていた、偉い先生の反応はさんざんだった。

「 (゚Д゚)ハァ? 」
(´・ω・) 「先生、ペニシリン大量なんて聞いたことあります ?」
(・ω・`) 「私はちょっと、そういうやりかたはしたくありませんね…」

時は流れていろいろあって、「北米流」のやりかた、古い薬を大量に使うやりかたが、感染症治療の主流になった。

感染症科の先生がたは、今では誰もが「アメリカ」の看板背負って、病棟内を濶歩する。

自分なんかが不精して、昔風に広く効く抗生物質を使ってると、 「それはアメリカのガイドラインとは違います」なんて、自分より若い感染症医に怒られる。

「大丈夫」の意味

感染症科の先生がたは、ペニシリンを好む。

専門家に言わせれば、たとえペニシリン耐性を持っている菌であっても、 それが肺炎球菌による肺炎ならば、ペニシリンを大量に用いるのが正しくて、「それで大丈夫なんだ」と言う。 「耐性」というだけで内科は怖がる。効かない薬使ったら患者さん死んじゃうから、 たいていずるして、こっそり別の抗生剤投与して、見つかって、また怒られる。

「大丈夫」という言葉の解釈は、けっこう難しい。

「耐性でもペニシリンで大丈夫」という専門家の言葉が、それが「敵が新型ライフルを持っていても、 AK47 で十分戦える」みたいな意見なら納得するけれど、それが「熟達した兵士なら38式歩兵銃でも十分勝てる」 という意味ならば、そんな意見を吐く人の下で働くのは苦痛だろうなと思う。

肺炎球菌は、たとえペニシリンに耐性を持っていたとしても、たしかにペニシリンで十分戦える。

その代わりペニシリンは、他の細菌を叩くには役不足だから、ペニシリンが活躍するためには、 前提として「その患者さんの肺炎は、肺炎球菌が引き起こしている」ことが保証されないといけない。

残念ながら、患者さんを検査して、原因菌を突き止めるのは「兵士」である内科の仕事だから、 将軍がいくら「ペニシリンで十分」と宣言したところで、前提の保証が為されない以上、 その「大丈夫」は、現場の兵士に響かない。

技術と技芸のこと

ペニシリンは古い薬だけれど、使いどころを間違えなければ今でも最強の抗生物質の一つだし、 これがきちんと使いこなせる人というのは、たしかにどんな状況になっても、 「ここ」というタイミングでペニシリンを投入できる。

ペニシリンの使いかたに熟達した人のすごさは、その代わりペニシリンでしか発揮されない。 「ペニシリン名人」みたいな人が、世代の新しい広域抗生物質を使ったところで、 名人がその抗生剤の効果を何倍にも高められるかと言えば、もちろんそんなことはない。

「芸」を絶対化する価値観の中に生きていると、「芸」を成り立たせている外部環境が変わっても、 同様の絶対性を発揮するかのような錯覚を持ってしまう。これが行き着くところまでいってしまうと、 一芸に秀でた者は万能であるかのような考えかたを生む。

「芸」には欠点がある。状況が変われば対処が出来ないこと。「名人」を作るコストが莫大であること。 より高度な技術が開発された場合、「芸」は新しい状況に転用できず、たとえ日本刀時代の武芸者の「芸」は、 鉄砲時代には何の役にも立たず、無価値になってしまうこと。役に立たなくなってしまうが故に、 技術で遅れをとった場合、名人は、それを「量」で補うことすら出来なくなってしまうこと。

たとえばAK47 は、良くできた「工業製品」だった。それがカラシニコフの形をしていれば、 ロシア製だろうが、中国製だろうが、たいてい確実に動作する。射程距離は短くて、命中率も「そこそこ」 だけれど、それを正しく運用する技術は強力な戦力になるし、もっと優秀なライフルが手に入ったら、 その技術は軍隊をもっと強力にする。

日本軍が昔使っていた38式歩兵銃は、組み立てるのに職人芸が必要な芸術品だったのだという。

部品のばらつきが大きくて、まともに動作する銃に作り上げるためには、職人による技芸が必要だった。 きちんと組み立てられた38式歩兵銃は命中率が高かったけれど、「射芸」に熟達した兵士が、 「当たり」の銃を使わないと、本来の性能が発揮できなかった。

敗戦間際、職人の芸を持ってしてもまともな銃が組めなくなって、射芸に熟達した兵士が軍隊から いなくなって、日本の軍隊は、事実上戦えなくなってしまったのだと。

輸入された価値観のこと

感染症の先生がたは、「北米流」を輸入するのではなくて、 やっぱり自分たちなりの判断基準を、自分たちの言葉で記述してほしいなと思う。

状況に合わせて自ら創作したものは、状況に合わなくなれば、改訂して、 また使い続けることが出来るけれど、「輸入」したものは、それができない。

北米流を「権威」として輸入する今のやりかたは、それが権威であるが故に、 実情と合わない部分が出てきても改訂できないし、現場の不安に対して、 権威を運用する人達が答えを返せない。

借り物の権威は、「本家よりも厳しい」ことを持って、日本独自の権威として運用される。 それは同時に、「本家より厳しいのだから、自分達のほうが本物だ」という主張にもつながる。 欧米から借りてきたガイドラインは、だからしばしば「厳しさ」競争になって、 「それを破らないと治らない」、やっかいな代物となって、現場を縛る。

大東亜戦争の昔、西欧流のやりかたを輸入した日本軍は、軍紀の厳しさという点では、 世界のあらゆる軍隊よりも厳しく、融通が利かず、そしてこの融通が利かないところを一種の誇りとしていた。 日本軍は、軍紀上は最も合理的な軍隊でありながら、現実から遊離した、完全に不合理なものとなっていた。

抗生剤の「効き」というのは、薬としての力価、病巣への到達度、体内での持続時間、 さらにはその国の保険で認められている最大容量、いろんなパラメーターが左右する。

欧米と日本とでは、ほとんどあらゆるパラメーターが異なってくるから、 「武器」の強さは同じではありえなくて、輸入したやりかたは、やっぱりどこか、 現場とそぐわない。

状況が違うなら、それに合わせたやりかたを考えるべきだし、 判断を自ら記述しないで、借り物の権威を振り回す人達は、 やっぱり専門家名乗っちゃいけないと思う。