ロバストネスとゲーム性

自然災害や悪意を持った第三者による攻撃、「うっかりした」、あるいは「運が悪い」職員によるヒューマンエラーは、すべてシステムを攻撃する外乱であると言える。外乱に対する安定性、ロバスト性の高いシステムを設計する際には、システムを「ゲームとして遊んで楽しい」ものにする必要がある。

「壊れない機械」を目標に設計を行うと、外乱に対する安定性は、むしろ損なわれてしまう可能性がある。壊れないことが求められたシステムは、しばしば「壊れることが許されない」システムへと変貌する。このことは結果として、外乱に対する安定を致命的に悪くしてしまう。

状況のコントロールとゲーム

「ルールからプレイヤが最適解を求めようとする」という関係が成立する時、それはゲームだと言える」

ゲームにおいて、ルールは一連の制約として設計される。システムをゲームとして設計することで、システムは外乱に対してルールを提示することができる。ルールが十分に「面白い」ものであれば、外乱はその制約に従って振る舞おうとする。外乱がどれだけ大きなものであっても、それがゲームの枠内に留まっている限り、外乱はコントロールできる。

システムにとって、ゲームであることをやめてしまう、あるいは禁じられてしまうことは危険なことだと言える。「これは想定する必要がない」だとか、「そういう想定を行ってはいけない」という指示が下されたその時点で、設計者はもはや、システムをゲームとしてデザインできなくなってしまう。

高すぎる目標を前にあきらめて見せて、「万全のことは行った。仕方がなかった」と居心地よくつぶやくやりかたは、最初から失敗を前提にした態度であると言える。予測できない外乱であっても、「ゲーム」を仕掛けて遊んでもらうことができれば、状況をコントロールすることができる。

設計者が目指すべきなのは「面白いゲーム」としてのシステムであって、「壊れないシステム」であってはいけないのだと思う。

公平性と駆け引き性

ルールが「フェアでない」ことは、ゲーム性を著しく損なう。ゲームにおいて、デザイナーとプレイヤーは、それぞれ対等の立場でなくてはいけない。プレイヤーが人間である場合はもちろん、それが自然災害や、ヒューマンエラーのような「運勢」であった場合でも、それらに対してフェアでないルールでシステムを設計すると、ゲーム性は失われてしまう。

ゲームはどこまでも駆け引きが可能なように設計されなくてはいけない。「あらゆる事態に備えて万全の備えを行いました」と喧伝するシステムが、たとえば自然災害に対して最悪状態の探索を禁じていたのなら、それはゲームとして失敗している。駆け引き性は、自然に対するフェアネスであって、「壊れない」ことを目指した機械においても、自然との駆け引き性を保った設計を行う必要があるのだと思う。

駆け引きが禁止された設計は、「壊れることが許されない機械」を生み出す。どれだけの鉄量を投じても、ゲーム性を持たないシステムは、実際に外乱と遭遇すると、「想定外の事態」によって破壊されることになる。

ルールがシナリオを規定する

ルールがシナリオを規定することは、いいゲームの必要条件であると言える。シナリオがルールを規定する、理念や物語がプレイヤーの振る舞いに制約をかけるようなやりかたは、ゲームの楽しさを減じてしまう可能性がある。

シナリオとシステムとが同じベクトルを共有すると、ゲーム性の向上が期待できる。麻雀でも、モノポリーでも、現金を賭けるとまるで別物のゲームに変貌する。麻雀や、モノポリーといったルールは、現金というシナリオの力を借りることで、ゲームとしての価値を増す。

押しつけられた物語は、ゲームの価値を著しく損なう。プロジェクトX はたしかにすばらしい物語だけれど、「これだけの努力を注ぎ込んだのだから、このシステムは壊れることが許されない」というシナリオを押しつけられた設計者は、優勝でなく、努力賞に舵を切る。努力の方向を間違えた祈りの結果、システムからは安定が失われてしまう。

物語を作りたいからゲームを作っているわけじゃない というゲームデザイナーの言葉に同意する人は、たぶんたくさんいる。その一方で、「努力したいからシステム複雑にしている」ように思える状況も、世の中にはけっこう多い。

独立性とゲーム性

ゲームのルールはそれ自体で独立していなくてはいけない。あるルールが別のゲームに依存していたのなら、そのゲームを知らないプレイヤーは、ゲームを理解することができなくなってしまう。

市販されているいわゆる的なゲームのほとんどは、それぞれが独立したルールを持っている。一方で、社会のルール、特に理不尽なそれのほとんどは、「道徳ゲーム」や「正義ゲーム」、「年功序列ゲーム」といった、もっと大きなゲームにルールの大半を依存していて、ゲームそれ自体を遊ぼうとする誰かにとって、これは極めて理不尽に思える。

「○○を悪用しないで下さい」という呼びかけを行うと、場のコントロールは失われて、違反をする人が増えてしまうことがある。呼びかけは、「道徳ゲーム」という大きなゲームに依存したルールであって、依存性を持ったルールがその場に導入されたことで、そこからゲームが失われてしまったからなのだと思う。

ジレンマは役に立つ

ジレンマを導入することで、システムのロバスト性は向上する。

鍵をどれだけ堅牢に設計したところで、金庫破りはその鍵を壊してしまうかもしれないけれど、「解錠を開始して30分後すると警備会社が飛んでくる」、というルールをそこ付加することで、金庫破りにはジレンマが提供され、結果として金庫が破られる可能性を減らすことができる。

ジレンマは、自然災害のような外乱であっても役に立つ。あえて細かく壊れるように設計されたシステムは、大きな外力に直面すると、壊れやすいところだけが壊れてしまう。特定のコンポーネントをピンポイントで狙うような外乱は、逆に大きな力にはなり得ない。これは堅牢には遠いけれど、システム全体をより安定にコントロールできる可能性は向上する。

まじめさはなんの役にも立たない

「プレイヤーに対してフェアである」、「ルールがシナリオに優先している」、「ルールが独立している」、「プレイヤーがジレンマに晒される」ように設計されたシステムにはゲーム性が備わっている。ゲーム性を持ったシステムは、外乱に対してより安定であり続ける。

システムがどれだけ「まじめな」ものであったとしても、まじめさは、ロバスト性の向上には貢献できない。

ロバストであることが要求されるシステムは、その破壊を目的とした不謹慎ゲームとして遊ばれることで、その安定性を試されるのが正しいのだと思う。遊んでみて「つまらない」システムは、恐らくはどれだけの鉄量を投入しても、外乱に対する脆弱性を追放できない。

設計者は、「そのシステムを舞台にした不謹慎ゲームは、遊んだとして面白いものになりますか?」と問われることになる。「これはまじめなシステムだからそんなものは必要ない」という言葉は反論になっていないし、面白くないシステムをどれだけまじめに運用したところで、想定外をコントロールすることはできないのだと思う。