賞賛の採算性

夏休みになると日記の宿題が出て、あれが嫌で嫌でしょうがなかった。

日記が大好きな子供なんて、今でもたぶん、決して多いはずがないのに、インターネットで文章を書く人はびっくりするぐらいに多い。

日記にはない、ネットが持っている大事な機能が「他人の目」なのだと思う。それがどんな形であれ、自分以外の誰かの反応が、できれば賞賛する側に返ってくることで、その人の振る舞いは大きく変化する。

ほめるのは難しい

けなされれば人は腐るし、何かの能力をほめられると、時々人は大きく伸びる。「ほめて育てましょう」と言葉にするのは簡単だけれど、実際のところ、誰かをほめるのは恐ろしく難しい。

誰かをけなせばいいのなら、仕事を命じて、マニュアルを渡して、結果が出るまで放置して、規定に足りていない部分をあげつらえばいい。ところが誰かをほめようと思ったら、その人がどんな工夫をして仕事をこなすのか、ほめる人はずっと見張っていないといけないし、何が「どう」よかったのか、過程を見た上でほめないと、その賞賛は響かない。

「ほめて伸ばす」やりかたの効果というのは、誰か教える側の人が、その人のことをずっと見ている、連続的にフィードバックを返していることによる部分が大きくて、賞賛しようが叩こうが、「見ているよ」ということが相手に伝われば、言葉それ自体の効果はそれほど大きくないのではないかと思う。

賞賛の採算性

第一回南極越冬隊の隊長さんは、部下の人たちを賞賛することで、チームの能力を高めたんだという。

隊長は「こうなってほしい」という結果だけを示して、そこに到達するまでの行程は部下のアイデアに任せて、あとはずっと見ていたんだという。工夫が実って、以前よりもいい成果が上がったその瞬間、「お前は凄い」と賞賛することで、みんなの実力が向上したのだと。

これを再現するための労力は莫大で、任せたその人のことを過去からずっと見続けていないといけないし、仮に「これ」という正解が決まっている行程であっても、部下が何かの工夫を試みたら、リスクをヘッジした上で、それを容認しないといけない。これがきちんとできる上司はたしかにすばらしい人だろうけれど、上司としてのその人の仕事と、誰かをほめて伸ばすこととの両立は難しそうだし、その上司が何か好きな趣味に没頭したくても、そんな時間は取れそうにない。

「貴様らは馬鹿だ。どうしようもない無能だ。俺の命令だけ聞けばいいんだ」と、上司が毎日繰り返せば、チームはやる気を失って、ゾンビの群れみたいな状態になる。チームの効率は最悪になるだろうけれど、マニュアルに規定された最低限度のパフォーマンスは保たれる。やる気に満ちたチームに比べれば、ゾンビの群れが成し遂げられる成果は少ないかもしれないけれど、上司の仕事は最小になる。上司はその間、好きな趣味に没頭できるかもしれないし、空いた時間でもっと稼ぎの大きな仕事にリソースを割り振れるかもしれない。

南極越冬隊は少数精鋭、何が起きるのか分からない場所で生き延びないといけなかったから、チームの能力は最大であることが求められて、上司がチームを賞賛することによって得られる能力の向上が、その仕事量に十分引き合ったのだと思う。一方で、何をやればいいのか、どうすれば売り上げにつながるのかといった方法論がある程度定まった、あとはひたすら人件費の削り合いで勝負するような業界においては、「ほめる上司」の労力は、その見返りに全く引き合わない。「ブラック企業が増えてきた」という言説は、マニュアル化というか、社会の規格化がそれだけ進んで、賞賛することの採算が合わなくなってしまったからなのだと思う。

じゃあどうすればいいのか

上司をほめる、あるいは上司を賞賛できるような職場を目指すのがいいのだと思う。

マニュアル完備のチェーン店で、マクドナルドみたいな場所で、ほめる上司がやる気いっぱいのスタッフを率いるのと、叩く上司が毎朝罵倒されてゾンビの群れみたいになったスタッフを率いるのと、売り上げは上司の仕事量ほどには変わらないだろうし、「ほめる上司」の成し遂げた仕事は、たとえば給料のような形で報われる可能性は少ない。

やりかたの固まった職場においては、賞賛というやりかたは採算割れをおこしやすくて、上司の側にはたぶん、「ほめて伸ばす」動機が薄い。こういう職場で、じゃあ賞賛することで最も高い収益が期待できる人間は誰かといえば部下その人なのだと思う。上司の技を賞賛し、上司の教育を賞賛し、上司の指摘に感謝を表明し、見守ってくれたこと、自身のアイデアを尊重してくれたことを賞賛することで、上司は「いい」方向に伸ばされる。

「おべっかを使う」ことそのものだけれど、いい空気を吸いたかったら、大事なんだと思う。