恐怖と信頼

「状況の無防備さ」と「猜疑心」とを積算したものが「恐怖」の総量となる。猜疑心が低くなると、信頼は高まっていく。

無害な人間と、信頼できる人間とは異なる。いざというときに、無害な人間は頼られることなく、むしろ真っ先に切り捨てられる。信頼できる人間であろうと思ったならば、約束をただ守るのでなく、約束が交わされる状況について気を配る必要がある。

恐怖は少ないほうがいい

怖いのは誰だっていやだから、人間は常に恐怖の総量を減らそうと試みる。怖い状況をそうでない形に持って行くことが理にかなったやりかただけれど、状況を無防備なままに固定されてしまうと、その人にはできることがなくなってしまう。それでも恐怖はいやだから、状況の改善を禁じられた人は、猜疑心の減量を試みて、逆説的に相手に対する信頼が高まってしまう。

整体やマッサージのようなサービスは、療法師に対して背中を向けた姿勢になることが多い。お客さんの側は、お店の人に対して無防備であることを強いられる。

相手が見えないのは怖いけれど、サービスの前提上、その姿勢は変更できない。怖いまま我慢するのはいやだから、お客さんは結果として、「このお店の人は信頼できる」という判断を暗黙に下す。

フロイトの昔、インタビューを行う人は、患者さんから見えない場所で行われたんだという。患者さんはソファーに腰掛けて、分析者はソファーの背後に腰を下ろして、患者さんの声を聞いた。これは患者さんが緊張しないようにという配慮だったようだけれど、別の効果もあったのだと思う。

無防備な姿勢と説得力

無防備な姿勢が前提のサービスは、それをサービスとしてお客さんが受け入れる限り、恐らくは説得閾値を大きく下げる。

整体師の言葉が、時々強力な説得力を生むのはそのためなのだろうし、秋葉原で昔流行した「耳かきサービス」のお店もまた、耳かきという体勢と、何らかの説得的コミュニケーションがセットになったのならば、強力な信頼を生んだのだろうと思う。

視界から隠れる、あるいは目隠しをする、耳かきみたいに動いたら危ない状況を作る、とにかく本人が「無防備だ」と感覚する状況は、その人の説得閾値を下げる。病院では普段、お客さんと話すときには1m ぐらいの間合いを取って、相対して会話する。あれはそういう意味で、「私たちは他人同士ですよ」という、説得閾値をむしろ上げるやりかたになっている。

催眠術の実演は、相手を目隠しした上で、催眠術師が相手の背中側から語りかける。ああいうやりかたは説得の手段としては理にかなっていて、病院があれをやってもいいのなら、説得は相当に楽になる。

説得と恫喝

「説得」と「恫喝」というものは地続きなのだと思う。言葉や暴力による明示的な恫喝も、お互いのポジショニングが生む暗黙の恫喝も、相手の状況を無防備な側に追いやる。状況を無防備にした上で、相手による改変を禁じれば、結果として恫喝が信頼に転化する。

暴力見せてから、「私はこれ以上の暴力を行使しません」と宣言すると、そう宣言された側にはそれ以上できることがなくなる。それでも暴力の記憶は怖いから、それを減じようとした結果として信頼が高まる。「昔ワルだった」人が持ち上げられたり、暴力をふるう夫がいる家庭が崩壊せずに続いたりする原因一部には、こうした機序が信頼を生むからなのだと思う。

信頼というものは、内面の「まじめさ」が生むのではなくて、お互いが置かれた状況と、場の猜疑心が作り出す。それが正しいことなのかどうかはともかく、信頼というものは、部分的には演出を通じて人工的に作り出すことができるし、それをやる人と、やらない人とでは、やる人のほうが信頼される。

医師の白衣や外来ブースの構造、真っ白に塗られた廊下の壁や、複雑に入り組んだ病棟の構造は、説得と信頼の道具として有効に利用できる。そうすべきなのだと思う。