多勢を使いこなせる人

専門家と呼ばれる人は、「効率よく弱いものいじめができる人」でなくてはいけないのだと思う。

対峙した問題に対して、投じる物量は少ないに超したことはないけれど、少ない物量で問題に当たることは、もしかしたら専門家でなくてもできる。

物量が不足していると、問題の解決は、一定の割合で失敗する。失敗した人は、誰もが「もっと物量があれば」と嘆息するのだけれど、じゃあ実際に充分な物量が与えられたとして、素人はたぶん、その物量を持て余してしまう。ガバナンスのコストは、組織の大きさに比例する。プロを名乗るなら、物量をきちんと御して、問題を容易に解いてみせないといけない。

道場では卑怯なやりかたを習わない

1 対1 の状況、個人の技量でぎりぎり手を出せる問題に挑むような領域で活躍するのは、プロよりもむしろ、「プロに迫るアマチュア」の得意とするところなのだと思う。こういう状況だと、個人として強い人が強いから、「趣味としての鍛錬」が、時として専門家の技量を超える。

武道では、個人を鍛錬することが求められる。個人と個人、あるいは個人が多数を相手にしたときの戦いかたも、教わる機会があるかもしれない。ところがたいていの「道場」では、多数で少数を攻めるような戦いかたというものは「卑怯」だから、教えられない。

多数の相手に少数で挑むのはかっこいい。無勢に対して多勢で挑んで、なおかつ危なげなく勝ってみせるのは、見た目からして卑怯だし、勝って当たり前だから、つまらない。つまらないことは、教えるほうだってつまらないから、鍛練をどれだけ積んでも、「卑怯なやりかたで当たり前に勝てる」専門家というものは、道場からは生まれてこない。

多勢の使いかたを教えてほしい

多勢を頼めば、勝つことは当たり前になる。ところがたぶん、その当たり前ができる人とそうでない人とが明らかにいて、たくさんの人で協力して、当たり前のように勝ってみせるためにはそのための訓練がいる。そうした訓練を積んでいるのが専門家だし、普段から、そうした状況で危なげなく勝てる方法をきちんと考えている人がプロなのだと思う。

医学部という場所は、病気に対してどこか「騎士道精神」のような立場を取っているところがあって、研修医がたくさんの検査を出せば「馬鹿」と怒られるし、より少ない検査で、少ないヒントから診断にたどり着ける人が「名人」だとほめられる。たくさんの検査を出せば、診断にたどり着けることは「当たり前」のはずなのだけれど、当たり前を再現するのにだって方法論は必要で、学校でそれを教わる機会は少ない。

武道や戦争みたいなものだけでなく、様々な状況、様々な業界に、物量に相当する何かというものがある。物量なしで何とか成功してみせることよりも、むしろ物量があって言い訳できない状況で、つまらなく、危なげなく成功できる技量を持った人が専門家なのだと思うし、専門家を養成する学校には、是非ともそういう技量を教えてほしいなと思う。