フェアプレーの正しさ

研修医になりたての頃は、「お菓子の家」に迷い込んだような気分。

検査室は24時間フル稼働してたし、けっこう大きな病院だったから、CTだとかMRIだとか、 民間病院の割には、当時としてはずいぶんいいものが入っていた。

何だって診断できる、何億円もする機械に取り囲まれて、自分がサインするだけで、 どんな機械だって稼働可能だったのに、 研修医には、それを勝手に使うことは許されなかった。

正しいやりかたの正しさ

習ったのは、正しいやりかた。

ほめられた振る舞いは、患者さんの話を聞くこと。何度も診察して、 いろんな場所の培養を取ること。顕微鏡を覗くこと。血液培養を提出すること。

目的も決めないで血液検査を提出するとか、とりあえず肺のCTスキャンをオーダーしてみるとか、 勝手にやるとすごく怒られた。

「治癒につながらないことは、やっても意味がない」だとか、 「君のそのオーダーは、何か患者さんの予後を変えるの?」だとか、突っ込まれた。

研修医の無目的な振る舞いは、たしかに患者さんの予後に貢献することは少なくて、 そうした振る舞いはだから、要するに患者さんのお金を使って、主治医の安心を買っているだけ。 反論できなかった。

研修医を仕込むやりかたとしては、すごく徹底してた気がする。 原因不明の腹痛の人が来て、お腹のCT 撮るのは禁じられてたけれど、腹膜開いて、 診断的腹腔洗浄を行うのは許されてたりとか。習ったやりかたは正しくて、 時にそれは正しすぎるぐらい正しくて、なんだか間違ってる気もしたけれど、 反論できなかった。

虫垂炎の患者さんを外来で見つけて、手術になるから採血出したりすると、やっぱり怒られた。 外科のチーフがやってきて、「手術適応を決めるのは、採血やCTじゃなくて、僕の指だから」とか見得を切って、 それがやたらとかっこよく見えた。

その先生は他所の大きな病院に国内留学して、帰ってきたら、CT 撮るようになってた。

当時はみんなで「あの人は汚れちまった」とか、陰口叩いた。後年もちろん、自分もCT 撮る医者になった。

「決めボム」という文化

「決めボム」という戦略、シューティングゲームで、緊急回避の手段である「ボム」を、 最初から「ここ」という場所で使うことを想定してゲームを攻略する考えかたは、 91年の「ガンフロンティア」、あたりから出てきたのだという。

自分がゲームセンターに入り浸ってたのは、「タイガーヘリ」とか「飛翔鮫」、 「究極タイガー」と、せいぜい「Tatsujin 」が出てきた頃。

その頃の「ボム」は、あくまでも緊急回避の手段であったり、状況を力ずくで越えて、 とりあえずエンディングまで進むための道具であったり。上手な人達は、「ここ」という場所で ボムをうつことをためらわなかったけれど、そのさきにはもちろんボム無しのやりかたがあって、 ボムを使うことそれ自体を戦略に組み込む文化はなかったと思う。

ボムを特定の場所で使うのは、古い人間から見ると、何となく「フェアじゃない」ような気がする。 厳しい状況を「気合い」で抜けることこそがゲームの精神で、ボムを発動することは、 どこか邪道な、「正しい道」に反した行いみたいな。

「決めボム」を当たり前のように使いこなす、むしろボムをうつ場所を最初から考えながら攻略を進める 今の人達に「正しさ」といたところで、「じゃあやって見せてよ」なんて笑われるだろうけれど。

フェアプレーの罠

前回のワールドカップサッカーとか、ちょっと思い出す。オーストラリアと日本の試合。

日本の監督は、サッカーを11人でやるスポーツと考えてて、選手交代は緊急手段だったけれど、 オーストラリアの監督は、サッカーを15人でやるものだと考えてて、最初から、 選手交代を見込んだ戦略を立ててたから、日本は最初から、人数的に不利な戦いを 挑まれていたのだなんて。

「フェア」でありたいのか、それとも勝ちたいのか。

同じことを何十年もやってる業界は、どこかで「フェアプレーの罠」みたいなものにとらわれて、 目指すべき目標がずれるような気がする。

  • 完璧な診断身につければ、余計な検査など必要ない
  • 完璧な見切りとレバーさばき身につければ、ボムなんていらない
  • 11人の選手が完璧に仕事をすれば、選手交代は必要ない

正しいやりかたを身につけさえすれば、姑息な技を考える理由はなくなる。 それはたしかに正論なんだけれど、「だから」正しいやりかたを磨くこと以外考えるな、 というのは、やっぱりどこか正しくない。

触媒としての姑息な手段

「正しさ」とはかけ離れた姑息な手段というものは、「触媒」みたいなものなんだと思う。

材料を十分強力に加熱できれば、反応時間を十分に長く取れるなら、 触媒なんていう余計なものはいらないかもしれないけれど、触媒という余計なものが 付け加わることで、反応に必要なエネルギーだとか、反応に要する時間を小さくすることができる。

流れとしての正しさと、系全体を振り返ったときの正しさとは、たぶんしばしば乖離する。

きれいなやりかたは、必ずしも消費エネルギーの少ないやりかただとは限らない。

当時習った正しいやりかたは、いつも正しくて、正しすぎてどこか不安で、 それでも正さには逆らえなくて、反論すると、なんだか自分が惨めになるような気がした。

今はもう、「惨めですが何か?」なんて開き直ってるけれど、 きれいなやりかたは、「触媒なしの反応」を目指してて、本来目指すべき効率のよさ、 反応に必要なエネルギー、患者さんが負うリスクを最小にするやりかたとは、 どこか離れていたのだと思う。