停止に対する考えかた

最近読んだ診断学の教科書は、診療という行為を「カードゲーム」に例えていた。

そこに記述されていることは、たしかに正論ではあるのだけれど、全く共感出来なかった。 診療という行為を、自分はむしろ、「鬼ごっこ」だと考えているから。

追い越す感覚

普段から「病気を追い越す」感覚を目標に、診療計画を立てている。

症状の原因だとか、あるいは病名が「これ」とはっきりしているときならかまわないのだけれど、 よく分からない症状の人を相手にしているときは、そこで立ち止まることが、すごくおっかない。 病気と競争をしているというか、暗闇の中で、お互いに鬼ごっこをしているような気分。

自分たち医療者側の目標は、病気を「追い越す」ことで、なんというか、 病気が行き着くであろう場所に先回りして、病気が予想していた以上に「重たい」治療を繰り出して、 相手が壁にぶつかって、乗り越えられなかったらこちらの勝ち、というルール。

病気が自分たちに「追いついた」ら、負けてしまう。鬼ごっことはいっても、そこは真っ暗闇だから、 追いつかれるその瞬間、病気の行方が、医療者の想定を越えるその瞬間まで、相手の居場所は分からない。 病気を「追い越す」時は、どういうわけだか追い越した感覚というものが漠然とあって、 それを感覚出来ると、初めてなんだか落ち着けて、患者さんと安心して話が出来る。

患者さんの見た目がどれだけ軽そうだろうが、症状があって、原因がはっきりしなくて、 自分たちにまだ「追い越した」感覚がないときは、なんだかすごく焦ってる。

追いつかれるとき

「たぶん肺炎だろう」なんて見込みで抗生剤使いはじめて、「肺炎の割に痰が少ない」だとか、 「肺炎の割には、酸素濃度の上がりかたが悪い」だとか、思考が「肺炎」に引っかかって止っているときは、 医療過誤につながる必然を踏んでいる可能性が高い。

「○○の割には」で思考停止して、病気に追いつかれて驚いて、狼狽しながら上司に助けてもらったり、 悪あがき的な検査だとか治療だとか繰り出して、なんとか状況を切り抜けたり。今でもなんとか生き延びてはいるけれど、 実際問題、そこに止まって怖い思いしたことが何回もあって、今はとにかく、「分からないときは動く」ことにしている。 動こうが、止ろうが、分からない状況というのは闇の中だから、「動く」ことが本当に正しいのか、患者さんにとっての 安全に結びついているのか、やってみないと分からない。

分からないけれど、分からないから、難しいから、暗いところは怖いから、 そういう状況に陥ったら、とにかく「ここじゃないどこか」を目指して動き回って、そこから逃げる。

自分はそれを「暗い中での追いかけっこ」として感覚しているんだけれど、 教科書とか読んでても、こうした感覚について言及している人は、あんまり見ない印象。 みんな怖くないのかな、とか、ときどき思う。

カードを切る人

同じ状況を、カードゲームだとか、将棋みたいなゲームにたとえる人と、 鬼ごっこにたとえる人が、たぶんいる。

カードゲームが好きな人達は、たぶん時間はたくさんあると考えている。制限時間はもちろん決まってはいるけれど、 自分が止っているときには相手も止っているし、そこに止って考えて、 相手の裏をかくような、きれいな解決策が見つかれば、そのほうが正しいと考える。

「鬼ごっこ」というゲームは、止ることの意味が全然う。

自分たちが止ったその瞬間から、時間とともにどんどん不利が積み重なる。 将棋とか囲碁なんかでは、止れば相手も考えるけれど、少なくとも目に見える状況は動かない。 鬼ごっこでは、息が上がって、止った奴から鬼に狩られる。

状況を、鬼ごっこ世界観で考えるときは、たぶん巧遅よりも拙速が重視される。 待つぐらいなら、どちらかの方向にとりあえず動いて、状況に支配される側から、 状況を動かす側に回ったほうが、まだしも生存可能性が高くなるから。

カードゲーム世界観に親和する人達は、むしろ止ることに「攻め」の意味を見いだすかもしれない。

自分たちが相手よりも賢い限りにおいて、そこにとどまって考えることは、 相手よりも優れた戦略を生み出す可能性を高めるから。

停止に対する考えかた

診療を、カードゲームに例えたくだんの先生とは、一緒に働けないような気がする。

自分にとっては、その人のやりかたは賢すぎて、患者さんにリスクを積みすぎるように思えるし、 その人からみれば、自分なんかはたぶん、検査を乱発するバカだと思われるだろう。

きれいなやりかた追求して、特定の検査を「一点賭け」で提出して、 その結果が返ってくるまでの3日間、ただ待つなんて状況になると、すごく怖い。 たとえその患者さんが軽症であっても、特定の検査に判断の重心をゆだねてしまうと、 状況がそこで止ってしまうから。

重篤感とか、診断だとか、個人的にはどうでもよかったりする。

その患者さんがたとえ軽症であっても、「追い越した」感覚が得られないと不安だし、 たとえ診断が未確定でも、とりあえず病気を追い越しさえすれば、確定診断は出ていないけれど、 病気が転ぶ先が「この方向」以外ありえないと確信出来て、状況に対して「面」で対処する やりかたが思い浮かんだら、重篤な患者さんを受け持っていても、安心できるから。

状況は本来、自らが置かれたありのままを受け入れるべきであって、何かに例えたその瞬間から、情報の欠落が始まる。

頭の処理能力には限界があるから、抽象度の高い何かに例えないと、 全容を把握するのは難しい。状況に抽象化をかけるとき、時間軸と、きれいな考えかたと、 捨て去るべき何かの重み付けが、「カードゲーム」と「鬼ごっこ」では違うのだと思う。

「ちょっと待て、落ち着いて考えてみよう」なんて、正論ぶち上げて状況悪くする「臨床をよく知った人」 と一緒に仕事をすると、ときどき困る。価値観違うから議論にならないし、言ってることは たしかに正しくて、反論するとなんだかこっちが悪者みたいで、余計に困る。

いやー分からなかったんでさっさとCT 撮っちゃいましたよ無能でごめんなさいHAHAHA」とか、 議論になる前に笑顔見せるのがたぶん正解なんだけれど、やっぱりなんだか負けた気分になる。

「鬼ごっこ」好きな他の人は、こういうときどうしてるんだろう。。