専門語のこと

「戦争を行うためには戦争語で会話することが必要で、日本語では戦争ができない」と山本七平が書いていたけれど、様々な業界に、業界ごとの「専門語」というものがあるのだと思う。専門語をしゃべれない人は、専門家の輪に加われないし、専門語をしゃべれない人が、会話語で現場を指揮すると、プロジェクトは業界を問わず、似たような経過をたどって失敗してしまう。

放水が成功した

原発に対して連日のように放水が繰り返されていて、今のところは「成功している」という言葉が、政府の側から発信された。

現場の頑張りは、疑いようもなくすごいことなのだけれど、現場が神がかり的にがんばって、その成果がたしかに「成功」と判断されて、それでもなお、現場の人たちの頑張りが、どんな形で最終的な状況の収拾に貢献しているのか、それが今ひとつよく分からない。現場はがんばっています、放水それ自体は成功です、という発表はもちろん喜ばしいのだけれど、どこかこう、政府の人が自己暗示をかけているようにも見えて、それが怖かったりもする。

あの命がけの放水が、何か大きな落としどころに向かうために必要なプロセスならば、政府の人たちが「その先」に見えているものを教えてもらえると、とても大きな安心材料になる。そうではなしに、単に政府が「やれるだけのことはやった。仕方がなかったのだ」なんて嘆息してみせるためだけに、「やれるだけの」精鋭を投入しているのなら、今すぐにやめてもらいたいものだとも思う。

外から今の状況を見ている限りは、政府の人たちの振る舞いは、やっぱりどこか旧軍を思い出す。大戦末期の日本軍は、ローカルな勝利を喧伝しつつ、大きな流れがどこに向かうのか、結果的に誰にもそれが見えないまま、「やれるだけのことをやった」結果として破綻した。

旧軍の行いのことごとくを批判して、彼らを叩いて、もう二度とこんなことがないようにと叫び続けてきた人たちが、結果として旧軍と同じ振る舞いをしているように見えてしまうのが、個人的には恐ろしい。

政府の人たちの振るまいが、対戦末期の旧軍なんかではなく、自分が単に、見るべきものを見ていないだけなのだったらいいのだけれど、警察がだめなら自衛隊で、自衛隊がだめなら消防で、消防がだめならレスキューで、と手を代わりつつ、やることはひたすら放水というのが、山本七平「日本はなぜ敗れるのか」に出てきた、バシー海峡に次から次へと輸送船を送り続けて全滅した旧軍の描写に重なって見える。

心肺蘇生語

病院によっては、緊急事態には、「コードブルーチーム」という暫定的なチームが活躍する。

患者さんが心肺停止したときが代表だけれど、こういうときには主治医の立場をチームが引き継いで、人間関係抜きの機械的な対応で、とにかく危機の脱出を最優先するようなやりかたにシフトする。

心肺蘇生の最中に用いられる言葉、「心肺蘇生語」というものは、薬剤や手技の羅列であって、語彙の数はせいぜい20ぐらいで、とても少ない。医学知識のない人がそれを聞いても、単に薬の名前が飛び交っているようにしか聞こえないだろうけれど、心肺蘇生の手順はチームで共有されているものだから、知識のある人は、薬の名前や手技の名前を聞いた時点で、今何が行われていて、状況がどうなのか、おおざっぱなところが把握できてしまう。

戦争という非日常を遂行するには「戦争語」が必要で、心肺蘇生を行う際には「心肺蘇生語」でコミュニケーションが行われる。たぶんどこの業界にも、こうした「専門語」というものがあって、「国語」に比べて語彙は少なく、単語の意味と、現状に関する見解との境界は、専門が深まるほどに曖昧になって、語彙の少なさは、意志決定の速度を加速していく。

災害対応という危機的状況を乗り越えるためにも「災害語」というものが必要で、現場の消防隊やレスキューの人たち、警察や自衛隊の人たちは、今そうした言葉でコミュニケーションを行っているのではないかと思う。ならば現場の指揮を執っている政府の人たちは、現場とどんな言葉でしゃべっているのか、テレビの前の政治家は、もちろん「会話語」でしゃべるけれど、指揮は「災害語」で行われているものなのか、それを教えてほしいなと思う。

会話語には「できない」がない

戦争語が必要な状況に日本語で戦争を行ったのが旧軍で、災害語が必要な状況に、会話語で災害対応を行うと、たぶん旧軍と同じことになる。

専門語の語彙は少なくて、できないことについては、そもそも単語が存在しない。

裏を返せば「できない」と言うための言葉が専門語であって、そう言える人こそが、専門家なのだと思う。

豊富な語彙を持った会話語を使うと、「できない」ことが無くなってしまう。戦争に負けそうで、もうどうしようもない状況でも「気迫があれば勝利は確実」と断言することはできるし、「秘密兵器を開発すれば逆転は可能だ」なんて、会話語はどんなことでも創造できる。

災害対応を会話語で指揮しようとすると、たとえば「今すぐガンダムを開発して消火させる」というアイデアが浮かぶ。ガンダムは「災害語」に入っていないから、専門家はたぶん「できません」と返答する。じゃあヘリコプターで水を落とすことや、日本中の精鋭をあの場所に投入して、とにかくひたすら水をかけることが「災害語」の語彙に入っているのかどうか、専門家の人に聞いてみたいなと思う。

山本七平の本に出てくる「戦争語でしゃべる軍人」という像は、「できることはこれとこれ、それを組み合わせて得られるのはこれ。語彙にないことはできない」と言える人なんだと思う。

軍隊語をしゃべれない人では戦争はできないけれど、軍隊語をしゃべる人同士では、「とりあえずやってみる」という語彙が戦争語に存在しないから、そもそも戦争という状況が発生しない。戦争という破綻状況は、「もしかしたら」勝てるかもしれないという憶測から生まれて、「もしかしたら」という言葉は、戦争語の語彙には含まれていないから。

放水が行われて、現在それに成功していることは、本当にすばらしいことなんだけれど、「放水せよ」という命令が、会話語で行われたものなのか、それとも災害語の語彙として行われたものなのかを教えてほしい。放水で時間を作って、稼いだ時間の先に、トップの人たちはどんな状況を想定しているのか、トップの人たちが見ているであろう「その先」の光景を語ってもらうだけで、放水は「災害語」の語彙たり得るし、それを聞いた誰もが大いに安心できるのではないかと思う。