説得は半径1mから

英国の元副首相にして運輸大臣でもあったジョン・プレスコットが、TopGear の対談コーナーに出演していた。

この政治家がどんな人であったのか、自分は何一つ知らないのだけれど、対談は素晴らしく面白かった。

対談

TopGear は人気の高い自動車番組で、政府に対してはたいてい批判的な立ち位置を取っていて、対談コーナーには政治家も時々呼ばれるけれど、いつも司会者からいろいろ突っ込まれる。司会者のジェレミークラークソンは、それでも相手に対する配慮が上手で、対談の相手に突っ込みつつ、笑いの落としどころは常に自分の側に持ってきて、最終的には、必ず対談の相手を立てる。

運輸大臣は、番組の中ではしばしば「無能の象徴」として叩かれていて、元運輸大臣でもあったプレスコットが出演したこの回にしても、司会者も、観客も、最初から「アウェイ」の空気だった。

プレスコットは司会者の突っ込みを切り返しつつ、議論はだんだんと白熱して、突っ込みは厳しくなって、観客からのブーイングが勢いを増した頃、全方向を敵に囲まれたスタジオで、司会者に追い詰められたプレスコットは、カメラを背にして立ち上がって、真後ろに並んでいる観客の方を向いて語りはじめた。

プレスコットの言葉は、たしかに苦しい言い訳ではあったけれど、弁明というものは、そもそも誰に向かって為されるべきなのか、「カメラに背を向けて、観客と向かいあう」あの態度こそは、説得の基本なのだと思った。

敗北を知る

プレスコットが所属していた労働党は、今はもう選挙で負けて、対談の最中、そのこともさんざん突っ込まれていたけれど、負けた人の言葉は柔らかく、司会者と政治家と、お互いの主張は全くと言っていいほどに異なっていたわりに、会場には議論を楽しむ空気があった。

誰かを説得したり、折り合ったりしていく上では、負けた経験というものがとても大切なのだと思う。

それが正解なのかどうかはともかく、「勝ちかた」というものは案外簡単に教えられる。ところが負けかたというものは、意識して教えてもなお難しいし、実際に負けたり失敗したりしないと身につかないことも多い。

負けかたを知らない人には、「負けてみせる」という選択肢が欠けている。こういう人が勝負に臨むと、負けられないから、時々恐ろしく無茶な決断をする。負けかたを知らないひとがトップで旗を振ると、部下はもう、負けることを許されない。世の中のひどい敗北の、けっこう多くの割合で、「将軍が負けかたを知らなかった」ことが原因になっていて、決断を下した当の本人は、それでも負けを認められない。

上手に負ける、妥協するという選択肢を持たない人は、負けが込んできたら「もっと勝とう」とする。負けがあり得ない以上、選択肢は収斂して、手段は純化されていく。靴が合わずに歩けなかったら、他の靴を探すのでなしに靴に合わせて足が切られる。リーダーはずっと同じ考えかたにしがみついて、他の意見を具申する人は削除されていく。

対談番組で負けの流れになると、攻撃的になる人がいる。あれはたぶん、その人のプライドが高いと言うよりも、負けかたを知らないからなのだと思う。攻撃は悲鳴であって、救援要請なのだから、本当は司会者がどうにかしないといけないのだろうけれど。

説得は半径1mから

政治家の対談番組は、しばしば議論が白熱する。お互いを説得できることは少なくて、出演者もたぶん、番組で誰かを説得できることなんて想定していないだろうから、番組ではたいてい、出演者は「カメラの向こう側」にいるであろう誰かに対して語りかけて、そこにいる人たちに背を向ける。TopGear の対談では、番組後半、プレスコットも、司会者のジェレミーも、カメラそっちのけで観客相手に語りはじめて、あれだけの人気番組で、あえてお茶の間そっちのけという絵図を放映していた。すごい風景だった。

説得というものは、本来は一番近い相手にこそ、行われるべきものなんだと思う。それが敵であろうが味方であろうが、どんな立ち位置であっても、説得すべき相手であることには変わらない。自分のすぐ後ろに立つ観客を説得できない人が、カメラの向こう側にいる誰かを説得したり、声を届けたりできるわけがない。

半径1m を説得できない人は半径10m を説得できないし、10m を説得できない人に、群衆を、社会を説得することなんてできない。ネットができて、個人がいきなり社会を相手に発信することができるようになった現代でも、基本はたぶん変わらない。

夢みたいなことを語る人の言葉は、時々説得力を持って響いたり、時々やけに空疎に聞こえたりする。両者を隔てているものの正体は、半径1m の説得力なんだと思う。半径100km の夢を語っても、最初の一歩に説得力がないのなら、その夢は結局、力を持つことはないのだろうから。