炊事のロジスティクス

大学時代の6年間、そもそも外食できるところがない田舎だったから、ずっと自炊をしていたけれど、今から思うと、あれは自炊ができていたとは言えなかった。

冷蔵庫にあるものを眺めて、とりあえず食べられる何かを作る、あるいは料理の本を眺めて、材料を揃えて何かを作ることならば、当時の自分にだってできていた。ところが気がついたら冷蔵庫は空っぽだったり、料理の本を眺めて、材料をそれから買い出しに行く必要があったり、そうした遠回りは、6年間変えられなかった。

「できる」の深度

そこにある材料で、一人分のご飯を作れる人は珍しくない。1年間を通じて、そこそこバランスのとれた食事を作れるだけの材料を、常に「そこ」に準備しておける人はほとんどいない。

手段が容易であることは、運用が容易であることを意味しない。手段にどれだけ通じたところで、運用の考えかたは、もしかしたら出てこない。

映画では、スタローンやシュワルツェネッガーみたいな無敵の兵士が大活躍する。主人公はたいてい、その場の戦闘に勝つけれど、その勝利はしばしば、国家レベルの問題解決に結びつかない。

「戦術」の問題と、「戦略」や「兵站」の問題は、あらゆる場面に存在していて、特に兵站を語れる人は、そんなに多くない。

運用を販売する人

手段を売る商売と、運用を売る商売とがあって、同じ業界であっても、お互いは共存できる。

料理の本は、手段を販売している。本を読むことで、その料理を再現することができるようになるけれど、料理の本は運用を提供しない。料理が再現できたとして、運用を知らない人が本の通りに作ろうものなら、もしかしたら冷蔵庫の中身は、余った食材で一杯になってしまう。「男の料理」がしばしば歓迎されないのは、「男」が片付けのことを考えなかったり、無駄に豪華な食材を買ってきたりすることが迷惑なのはもちろんだけれど、別の誰かが台所に介入することで、今まで保たれていたリズムのようなものが乱されて、それを立て直すのも大変だからなんだろうと思う。

食べ物屋さんは、料理を販売しているようでいて、実際には運用を販売している。冷蔵庫が空になった日であったり、あるいは自炊に疲れた日であったり、一定のタイミングで外食を導入すると、運用の破綻が回避できる。「外食の方が結局安いよね」なんて、自炊に慣れない学生はしばしばつぶやく。慣れない運用に疲弊して、運用を外から購入することで、「結局安い」という体感が得られる。

運用を本にしてほしい

料理の本と料理屋さんとは、お互いに料理という業界にあって、勝負している次元が違う。料理の本がどれだけ売れたところで、料理屋さんを利用する人は変わらない。

料理屋さんを経営している人たちが迷惑するような料理の本があったとしたら、それはたくさんの料理が掲載されている本ではなくて、自炊生活の運用を解説する本なのだと思う。

自炊の問題も、戦術要素、戦略要素、兵站要素といった段階がある。料理の上手な人はたくさんいるし、料理の記事、「戦術」レベルで自炊を語った記事を書く人はたくさんいるけれど、「戦略」レベルの料理記事みたいなものをもっと読んでみたいなと思う。豚肉だったら、肉の塊を買ったとして、どうやってそれを保存して、どうやって使い切ると飽きずに食べられるのか、それをやるには他にどんな材料が必要で、どのタイミングで買い出しに行けばいいのか。何かの調理器具を買ったとして、「買いました、便利です」でなく、それを購入することで、日常の生活サイクルがどう変わり、何が便利になって、どんな手入れが大事になってくるのか。

軍隊という組織は、現場レベルであがれる上限と、将官レベルの最低ラインとが厳密に区別されていて、「現場たたき上げ」の誰かが将軍になることは少ないし、階級が上がっていく過程で、どこかで一度学校に入り直さないと、そこから先の階段を上れない。

戦略や兵站は、戦術の延長線上には存在しない考えかたで、だからこそたぶん、「大学生がひとり暮らしをはじめて、お金がなければ勝手に自炊が身につく」なんて考えかたや、「お金が足りなくて外食ができないのなら、自炊をすればいいのに」なんて考えかたは間違っている。運用の考えかたは、どれだけ必要に迫られたところで、たぶん習わないと身につかないから。

「自炊で1年間を乗り切っていく」ことは、恐らくは相当に高度な知的作業であって、今日から1週間どんなものを食べ、それにはどんな材料が必要で、今日の買い物で何を買い、それをどう加工すれば一定期間の保存が利くのか、そのあたりを学ぶためには「クックパッド」では足りない気がする。

陸軍士官学校の教科書みたいな雰囲気の、「そもそも」論から説くような料理の本があったら、きっと役立つと思うのだけれど。