理不尽にやると上手くいく

ちょっと前、「ジューサーの中に金魚を入れる」という現代美術の展示があった。

ジューサーの中に金魚と水が入っていて、スイッチだけリモコンで、観客の側に置かれる。観客は誰もがそのスイッチを押すことができるようになっていて、「いつでも金魚を殺せる」という、その感覚が展示になっていた。

金魚の寿命を延ばすもの

この展示で、実際にボタンを押せた人はたぶんいないのだろうけれど、これをたとえば、ジューサーに入れた金魚をインターネットで公開して、ネットの向こう側にいる誰もが、匿名のままそのボタンをクリックできるようにしておくと、誰かがボタンを押してしまう。多数決ルールを導入して、「ボタンを押した人が累計で10人を超えたら、ジューサーの電源が入ります」という看板を出しておくと、ボタンが押される閾値はますます下がる。

匿名ルールを廃して、たとえばTwitter のような、押した人をある程度トレースできるメディアで展示を公開しても、状況はそんなに変わらない。IDの追跡が可能になってしまうと、今度は逆に、あえて押してみせることを、一種の表現として利用しようという人が出てくるだろうから、金魚の命運は、やっぱり危ういままになってしまう。

恐らくはたぶん、「ボタンは誰でも押せます。累計で10人の人がボタンを押すとジューサーが回ります。その代わり、10人のうち1人だけ、押した人の氏名が公開されます」という但し書きが、金魚の生存確率を高めてくれる。

売名目的の人にしてみれば、自分の名前が公開されない可能性があるならば、自分の行為が無駄に終わってしまうリスクがあるし、怖いもの見たさの人は、「10人のうち1人」という理不尽さがためらいを生んで、やっぱりボタンは押せないだろうから。

完全匿名も、完全公開も、「完全」が、ルールに対する過度な信頼を生んで、常識の垣根を踏み越えて、ぎりぎりまでやる人たちを生み出す。確率論的な理不尽さを持ち込むと、ルールはもう、誰からも信用されなくなる。ルールに対する不信が自制を生んで、自制は落としどころとしての常識を生み出していく。

抑止力としての理不尽さ

インターネットインフラの信頼性が高いこと、エンジニアの人たちが、一生懸命にやり過ぎてしまったことが、お手つき即死のネット文化を生み出したのだと思う。

インターネットは無限に公平で、政府だとか、特定の誰かをネットで叩くときには、誰もがたぶん、どこかで「叩き返すのならば全ての書き込みに対して公平に」という建前を信じている。叩かれる側が個人であって、叩く側が「公平な無数」であれば、力量の差は圧倒的だから、リスクは事実上無視できる。今はたしかに、弁護士や警察の助けを借りれば、叩いた誰かを追跡することは不可能ではないけれど、「全員が公平に追跡可能である」ことは、むしろ抑止の効果を削いでいる。

インターネットのインフラは、公平で理性的に過ぎて、理不尽が介入する余地がない。ネットにつながった誰もが、ルールを信頼しているから、ルールの際、常識から見てやりすぎだけれどルール違反ではない、ぎりぎりの場所に、莫大な人数が殺到してしまう。

掲示板の書き込みルールを、たとえば「100人に1人が無条件にID開示を受ける。叩きに対する全責任はその1人が負うことになる」というルールを導入すると、その理不尽さが、たぶん「全てのIDは追跡可能です」という看板よりも、叩きをためらわせる。

完全匿名も、完全公開も、ルールというものは、完全を目指した時点で落としどころを失ってしまう。原則匿名、その代わり、管理者やプロバイダーが、「ついうっかりと」書いた人の実名を掲示板で全世界公開、なんてイベントが年に1回でもあるならば、その場所の空気は、実世界のそれに近くなっていく。

サイコロやくじ引きは大切

法律や、社会での様々な意思決定もまた、厳密な運用や議論を心がけるよりも、むしろサイコロやくじ引きを導入することで問題が解決する状況があるのだと思う。

法律の運用を厳密にすると、ルール違反ぎりぎりの場所に、先の見える人が殺到して、本来目指すべき「常識」を守る人はいなくなる。常識を目指して、法律を弾力的に、現場の裁量を大きく認めるような運用を行うと、取引の余地が大きくなって、結果として議論の上手が法律を勝手に運用できることになる。これは運用者に対する不信を高めてしまう。

法律それ自体に理不尽を組み込んで、ここから先は黒、グレーゾーンに入ったらサイコロを振られて、理不尽な目が出たら問答無用で皆殺し、というルールにすると、グレーゾーンに近寄る人はいなくなる。サイコロやくじ引きと交渉したり、怒りをぶつけたりするのは空しいだけだから。

議論をとことん戦わせて、「正しい意見に誰もが合意する」状況を目指してしまうと、結論はたいていろくでもないものになる。劣ったアイデアが「努力賞」として取り込まれた結果として、成果物の魅力が削がれてしまったり、「全員の合意」に到達できなかった結果として、組織を「純化」する流れが生まれて、合意できない人が殺されてしまうことだってある。

会議室に「くじ引き」や「易」のような理不尽を導入することで、プロダクトの品質が高まったり、犠牲者を減らせる可能性がある。ああいうものは本来、意思決定を加速するための道具であって、未来予測という機能は、むしろ後付けのものなんだと思う。

決定が困難な場所にランダムさを持ち込むと、物事は案外上手くいく。「確率論に従って、あえてちゃんとやらない」ことが、問題解決のヒントになる。