希望を捨てて覚悟する

何年たっても、当直業務というものはやっぱり怖い。研修医だった頃、平然と業務をこなす上の人たちを見て、自分もいつかああなれると信じていたのだけれど、怖いものはやっぱり怖くて、年次を重ねて、恐怖はむしろいや増した。

希望を捨てることについて。

尋問には希望が必要

戦争で捕虜になった人を尋問するときだとか、あるいは刑事事件で容疑者を尋問するときもたぶん同じだろうけれど、尋問や拷問のような手法を使うときには、何らかの希望を見せながらでないと、効果がなくなってしまうのだという。

それが尋問であれば、相手をどれだけ執拗に問い詰めたところで、話したところで状況が変わらないのなら、尋問を受ける側には意味がない。尋問を行うときには、まずは「答えてくれればこんなところからさっさと抜け出せますよ」とか、「早く帰って、子供さんと一緒に話がしたいですよね」だとか、そこから抜け出せる可能性をまず提示して、手を伸ばせば届くところに「希望」を見せ続けることで、効果的な尋問が行えるのだと。

希望や願望というものは、それ自体が弱さの根源でもあって、一度希望を見てしまった人は、外からの介入に対してどこか脆弱になってしまう。

当直前のお祈り

怖いことはどうしたって避けられなくて、それでも怖がってばかりだと仕事にならないから、当直直前、たいていはこんなことを考える。

  • 平均値を信じる: どこの施設であっても、「今日はだいたいこのぐらい」という人数は決まっている。て、祈ったところで人は減らないし、増えるといっても、今まで20人だったのが100人来るとか、可能性としてはまずありえない。ありえないものを怖がってもしょうがない
  • 怒らない: 理不尽な思いをしても、患者さんだとか、そこにいない誰かに対して怒りをぶつけない。怒ると眠れないし、怒っても、確率論の神様は、また別の患者さんを連れてくる
  • 取引しない: 「夕方は死ぬほど忙しかったから夜中はきっと暇だ」とか、「今が忙しくないということは、これから救急のピークがやってくる」とか、そういうことを考えない。忙しい日は忙しいし、そうでない日はそんなでもない。その日の病人が何人なのか、それを決めるのは時間ごとの取引なんかじゃなくて、その日の温度や天気、すくなくとも、病院にいる自分たちに左右できる何かじゃない
  • いつか朝は来る: 「このままずっと眠れないのではないか?」という恐怖は無視していい。最悪を想像しても、いつか朝になる。一晩ぐらい寝なくても死なない。朝になったら、最悪仕事を放り出して帰ったところで、少なくとも患者さんには迷惑はかからない。恐れるべきは「自分に状況がコントロールできなくなること」であって、一晩寝ないぐらいのことで状況がコントロールできるのならば、それは引き合う。眠れない恐怖のあまり、判断にぶれが生じるほうがよっぽど危ない

漠然とした心配のこと

「相手の言うとおりにしておけばよかったのではないか?」とか、「このまま当直を続けると大変な事態になるんじゃないのか?」とか、予測の出来ない何かが頭をよぎると、そこから先の疲労感が一気に増える。

漠然とした心配というものは、それを心配しても仕方がないどころか、心配することは、しばしば害悪でもあって、心配しなくてもいいことを心配しすぎて、潰れてしまう人も多いのだと思う。

何かの願望を抱いてしまうと、「漠然とした心配」がセットでやって来る。

願望を抱かないこと、その代わり、その先にある確実な結末、「想定される最悪はそこまで最悪じゃない」ことを知ることで、覚悟というものが少しだけ定まるのだと思う。