謝罪と誠意について

今年になって見る機会のあった、社長さんの謝罪について。

グルーポンの謝罪

正月に販売されたおせち料理の品質が不十分で、それを販売したグルーポンの社長さんが謝罪のビデオを公開した 。教科書的な、謝罪の見本のような動画だった。

米国人(?)の社長さんは、まず最初に、生じてしまったことに対する現状を語って、「申し訳ありません」と感情の表明を行った。次に「これは私の責任です」と、責任の表明を行って、補償についての話題につなげた。

責任の引き受けと補償の宣言とを行った後で、今後それをどう予防していくのかが説明されて、最後に「私が皆様にお約束できるのは、失敗から学び二度と同じ過ちを繰り返さないために全力を尽くすということです」と、会話を締めた。

こじれた状況を丸く収めるためにトップが乗り出す、正攻法というか、反論の余地のないやりかただけれど、とても新鮮に聞こえた。

謝罪をしたのは外国人の社長さんだったけれど、これが日本の会社だったら、最初に来るのはもっと漠然とした、「ご迷惑をおかけします。申しわけありません」のような言葉なのだと思う。現状を定義しない、あえて対象をぼかした謝罪を行った後で、今度はたぶん、「部下がこんな失態をしでかしました。申しわけありません。我々は彼らを信じていました」と、問題の切断が試みられる。

具体的な金額に踏み込んだ補償の話は、カメラの前ではなんとなくためらわれるから、日本だったらここは、「お客様とこれから誠意を持って交渉させていただきます」といった、そういう言葉が来るような気がする。

締めに来る「今後の対策」については、「二度とこういうことの無いよう、社員一同徹底していく所存です」というのが、典型的なパターンになる。その失敗から何を学び、どういう対策を行い、それによってどういう効果が期待できるのか、具体的な言葉を日本で語ると、もしかしたら叩かれてしまう。

つまらないことに意味がある

グルーポンの社長さんが行った謝罪というものは、文章で発信するならともかく、ビデオメッセージや記者会見の席で、日本人のトップが同じことをやるのは危険な気がする。

あのやりかたはどこか、「外人さんだから」の威光効果が効果を裏打ちしているところがあって、マスメディアを前にした記者会見の席で、社長さんが「責任」を語ろうものなら、あとからどれだけ素晴らしい対応を行おうが、辞任を宣言するときまで、追及は止まないだろうから。

お互いに対等な空気で行う謝罪と、叩く気まんまんの報道陣を前に行う謝罪とでは、選択すべきやりかたは、異なるのが正解なのだと思う。叩くのが前提の空気を前に、「失敗」を報告して「謝罪」してしまうと、そこにいる人たちは、一斉に叩きにまわる。「この男は潰れきるまで叩いていいんだ」という空気を防ごうと思ったならば、「失敗」を具体的に語るのを回避したり、あるいは自らの責任を明言しないで、頭下げてじっと黙って、状況がグダグダになるのを待ったほうが賢い。

ニコニコ動画の謝罪

最近「ニコニコ動画」が一時的に動画の閲覧が難しくなったことがあって、そのトラブルについての謝罪が上手だなと思った。

最初に謝罪の言葉があって、トラブルの原因についての説明があったあと、「根本的には莫大なお金をかけることでしか解決できません」と、ある意味あきらめとも取れる言葉が続いた。「こういうことが二度と生じないよう、一同全力で尽くしていきます」という発言でなく、会社のコスト構造や、リスクを回避するのに必要な費用の説明があって、できない部分はできない、できることについては見直しを行います、という宣言で締められていた。

これは平均的なユーザーに対する謝罪であって、最悪の顧客に怯える対応とは違う。メディアを相手にしていたら土下座会見になったって不思議でないところが、あえてそれをやらないことが、ユーザーに対する暗黙の信頼を表明しているような気がして、個人的にはいい印象を持った。

幹部一同が頭を下げる謝罪会見というのは、あれはマスメディアという神様を何とかなだめるための、一種の神事であって、あの謝罪はそもそも、お客さんの方向を向くように設定されていない。メディアがそれで納得したとして、ユーザーへの説明はまだ行われていないわけだし、謝罪会見のあとで関連記事がネットから削除されたりすると、会社のホームページが爆発炎上したりする。

ネットは誰でも発信ができるから、トラブルに遭遇したとき、声を簡単に伝えることができる。口を極めて企業を叩く人もいるだろうし、恐らくは黙ってスルーする人がほとんどで、中には逆に、トラブルそれ自体を楽しんだり、運営の対応を誉める人もたぶんいる。本来の平均がどのあたりなのかは調べようがないのだろうけれど、一番声の大きな人が、集団の意思を代表することにはたぶんならない。

マスメディアは営利組織だから、こういうときにはたぶん、一番極端なだれかの声で、集団を代表させる。企業を叩こうと思ったら、涙ながらに運営を罵る誰かを大きく取りあげるだろうし、もしかしたら逆のことを行うかもしれない。「スルーする大多数」の声をいくら取りあげたところで、それではニュースにならないから、平均的なユーザーの声は、たぶんメディアに乗る日は来ない。

顧客の理性を信じること

ニコ動のトラブルについて、個人的にまず不安だったのが、これが企業側の問題なのか、それとも自分のPCの問題なのか、あるいは自分のID固有の問題なのか、という部分だった。分からないままにTwitter を眺めていたら、あちこちから「動画が見られない」という声が上がって、ニコニコ動画のスタッフも「自分たちのトラブルみたいですね」という反応を返していたから、それでだいたい安心できて、このトラブルについては、自分の中ではこの時点で、「待てばいいや」という方針で暫定的に解決した。

ニコ動のトラブルについては、会社の幹部の人が、あたかもユーザーをないがしろにするかのような発言をしたりして、火に油を注いだ側面もあるのだけれど、その時の動画はそのまま公開されていて、今も消されずにそこにある。「火消し」のやりかたとして、これは正しいことだと思う。

各ユーザーの考えを促すというか、「判断に必要な情報は提供するから、落としどころは各自で考えて下さい」という応対を行うと、ユーザーの考えかたは拡散して、集団の意思は平均に落ち着く。社長さんがいきなり謝罪して、情報は少なく、ユーザーに判断の機会が提供されないと、考えかたは極端に収斂して、火の手はむしろ強まってしまう。

「お客さんを信じることが誠意である」ならば、顧客の判断力を信じて情報を公開することが誠意であって、単に謝るという態度は、逆にお客さんの判断力をどこかで疑っているようにも見える。

「その問題が解決可能なものである」ことが大前提だけれど、解決可能な問題に関しては、徹底的な情報の提供が行われている限り、すでに「誠意ある対応」は達成されている可能性が高い。

こうした場合、「二度とこういうことの無いよう、社員一同徹底していく所存です」といったような締めの言葉は、むしろ言わないほうが正しいのだと思う。