量産型はダテじゃない

昔から救急外来という場所が好き。怖いし疲れるし、 最近は、いろんな人から文句言われたり訴えられたり、 ろくなことが起きない場所なんだけれど、それでもやっぱり救急が好き。

リスク回避の手段を前から考えてる。リスク管理の問題さえ解決できれば、 この場所にはまだまだ、昔みたいな賑わいが戻ってくるだけの楽しさがあるはずだから。

最初の頃は、技術の向上それ自体がゴールだと思っていた。

自分なんかよりもはるかに高い技術を持った人達が、次々と刺されて現場を去っていくのを見て、 大事なのは技術じゃなくて、むしろ交渉能力なんだと思った。

交渉のやりかたとか、人質交渉人のマニュアルとか、ちょっと外れて新興宗教の洗脳手法とか、 とにかく「交渉」に関係することをあれこれ調べた。

それは多少の役に立ったけれど、本当に怖い人達は、交渉というルールの枠外にいた。

「刺す」行為はそもそも引き合わない。何かの目的があって交渉を持ちかける人達は、 それをよく知っていて、その人達を相手に交渉の技術を磨いたところで、 自分が刺されて倒れる確率は、あんまり変わらない。どんなに交渉が上手であっても、 医師が救急外来に立ち続ける以上、いつかは刺される。

医師が現場に立っていて、何かの判断を行ってる部分こそが問題なんだと、何となく気がついた。

判断のマニュアル化。医療の現場から医師の裁量を減らすやりかたは、 たぶん現場を様々な患者さんから守るための、強力な盾として作用する。

防衛手段としての接客マニュアル

「スマイルゼロ円」なんて、現場の人間に頭を使わせない、 マクドナルドの接客マニュアル。あれはたぶん、お客さんに均一な笑顔を提供する役割と、 「笑顔が嫌いなお客さん」みたいに特殊な顧客から、現場を保護する役割とをあわせもつ。

マクドナルドに入れば、スタッフはみんな笑顔。このへんはたぶんマニュアル化されていて、 おまけにもう一つ、「スマイルゼロ円」は、ほとんど公知のものとして公開されている。

仮に、笑顔を向けられるとものすごく不愉快になるお客さんがいたとしても、 そんな人は本来、最初からマクドナルドには入らない。「マニュアルに強制された笑顔」 が公知のものならば、「マクドナルドに入ると笑われる」ことを知って入った客さんだって、 責任が発生するはず。

あらゆる種類のお客さんに対して開いている職場は、様々なクレームに翻弄された 帰結として、きっとマクドナルドの接客マニュアルみたいな、 現場を「無脳化」するやりかたにたどり着く。

万能の防衛手段は作れない。

どんなにきちんと接客しても、その行為自体を「不愉快」と定義されれば反論できないし、 スタッフが訴訟に巻き込まれたら、現場の士気は下がってしまう。 接客なんて行為に正解は存在しないからこそ、会社側が唯一取れる防衛手段は、 「会社としての正解」を作ってしまって、それを誰の目にも止まる場所に公開しておくことなんだと思う。

プロトタイプ幻想のこと

量産品に対する生理的嫌悪感というのは、何となく技術系に共通する思い。

凡庸な量産品の群れを、すばらしい性能を持ったプロトタイプが打ち破っていく物語はみんな 大好きだったり、長年かけて改良されてきた欠点だらけの量産品を見せられると、 何となく一から作り直したい欲求にかられたり。

「量産品」は、伊達じゃない。

限界性能を目指した実験室グレードの試作品は、発注段階では全てを理想条件で設計するから、 当たり前のように初期性能を発揮できない。部品が特殊だから交換きかないし、 信頼性なんて考えられない。

限界目指してること。不安定であること。信頼性が低いこと。 どこから壊れるのか分からない予測不可能性は、物語世界ではプロトタイプの魅力として 語られるけれど、実世界ではもちろん通用しない。

量産されて、市場の検証を十分に受けた製品は、安定していて、挙動が読める。 何がおきても、それは予想の範囲だから、信頼できるからこそ「つまらない」。

ガンダム」とか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなプロトタイプには、本当は勝たせちゃいけないんだと思う。 全人類の期待を一身に背負ったプロトタイプは、性能が劣った敵側の量産品に 囲まれて、そのうち故障が頻発して、部品が足りなくなって、結局人類滅亡するのが正しいはず。

部分の最適化は、必ずしも全体最適につながらない。

プロトタイプは、いい部品の寄せ集めで作られていて、 状況ごとのピーク性能はたしかに高いけれど、個々の「よさ」をいくら集めたところで、 それは全体としての「高性能」にはつながらない。

「安心できる医療」みたいな高性能を目指すとき、個々の医師が「いい医師」目指す今のやりかたは、 「プロトタイプの幻想」に縛られてる気がして、間違っているように思う。

マスメディアが絶賛するような「いい医師」像をいくら追求しても、あの延長線上にはたぶん、 「安心」は現れない。定食屋的な、量産品的なやりかたは、「いい医師」とは異なるけれど、 「安心」にはよほど近い気がする。

みんなが判子で押したようなやりかたをする医療は、つまらない。つまらないからこそ、 医師の判断は見通しがよくなって、見通しのいい構造は、結局信頼につながっていく。

みんなが同じことを繰り返せば、どこで間違うのか、どこで悪くなるのか、そんなデータを共有できて、 技術を「枯らす」ことができる。今みたいに、みんながカスタムメイドの医療目指して、 一人一人がピーク性能目指すやりかたやってると、信頼性はいつまで経っても上がらない。

マニュアルに縛られたやりかたは、最初のうちは無様で信頼性も低いだろうけれど、 間違いが生じても、それを改良して前に進めるやりかたを示せるのなら、そこから 「信頼」を生み出せるはず。

行為の定義化が開く未来

防衛手段としてのマニュアル医療を、やっぱり現場の偉い人達は、 もっと真剣に考えるべきなんだと思う。

「証拠に基づいた医療」に基づいた診療ガイドラインとか、学会が作った外傷のガイドラインなんかは、 患者さんを守ることに特化しているぶん、まだまだ踏み込みが甘いし、 あれでは受け入れられない。

医学的には正しいけれど、現場を守る視点がないやりかたでは、 結局現場は回らない。

アメリカの警察マニュアルなんかでは、自らの身を守る手段を確保してからでないと、 犯人には近づけない。一番危険な鉄火場では、防御を確保してからでないと、 現場の理性を担保できないから。

現場が100%スペックどおりに動くことを想定する、名人芸を「当然のもの」として要求する、 「患者さんのための」ガイドラインというのは、医師の生存可能性を考慮しないぶん、 結局それは、患者さんの不利益につながっている気がする。

「エコーを用いて腹腔内出血を診断する」なんてサラッと書いてあるようなマニュアルは、 あれは偉い先生が「俺はこんなことまでできる男なんだぜ」みたいな、 その人の実力を誇示する道具ではあっても、現場を守る役には立たない。

それをもらった現場が、あまりの馬鹿さに絶句するぐらい、 「馬鹿向け」に作った診療マニュアルを学会が出して、 それを広く一般の人達に公開するのが、結局正解なんだと思う。

症状から検査のセットを呼び出して、診断をパスして治療が始まる、 そんな手順書が一般公開できれば、 たとえば「あなたの訴えを持って病院に行くと、こんなことをされて、○万円請求されますが、 いいですか ?」みたいな情報提供だってできるはずだし、患者さんの主訴それ自体が、 診療の「要件定義」として医療機関を駆動するようになる。

患者さんが「とにかく調子が悪い」みたいな主訴を選択すれば、 それによって莫大な検査コストが発生するし、 その患者さんが「治療」にたどり着くまでの時間も余計にかかる。 その患者さんがもっと詳しい経過を 説明すれば、それだけ検査は減って、より安価に、短時間で治療までたどりつける。

無脳化した、現場の判断を放棄した医療というのは、 だから自分の身体に対して自覚的な人が得をして、 無自覚な人が損をする構造が実装できる。今は全く逆。 身体に無自覚で、声が大きな人が、 現場の限られたりソースを総取りしてしまう。

診療手順を全て公開すれば、たとえば医療機関を意のままに動かしてみたり、 あまつさえ「医療機関に自殺の手伝いをさせる」なんてことすら可能になるんだろうけれど、 それでいいんだと思う。我々はしょせん道具であって、お金を払うのは 病院に来る患者さんなのだから。

医学的には、そんなことは正しくないんだけれど、 無脳化した現場、「患者さんの声」駆動型の組織というのは、あらゆる人に対して 門戸を開いた組織が最後にたどり着く先として、必然なのだと思う。