「医学的」は案外狭い

年次が上がるにつれて、当直とか徹夜とか、だんだん辛くなってきて、 「深く眠る」、ただそれだけのことが、今はすごく切実。

求めるものはみんな一緒。上の先生がたは、エルゴフレックス という寝具を使ってて、けっこう調子がいいらしい。

マットレスと敷き布団と、セットで20万円以上する代物だけれど、お店で寝かせてもらうと、 体が空中に浮かんでるような気がして、たしかに気持ちよく眠れそう。

お店の人には、「気持ちがいいだけじゃなくて、背筋がまっすぐになって、医学的にもいい効果があるんです」なんて 勧められた。いちいち「医者です」なんて断らないけれど、医学的かどうかぐらい、自分たちに決めさせてほしいなと思った。

「背筋まっすぐ」は医学じゃない

「気持ちがいい」は医学じゃないし、「背筋がまっすぐ」もまた、医学じゃない。

背筋が曲がった状態は、医学的に見て、たしかに正常ではないけれど、 ならば背筋がまっすぐな状態が、「健康を生む」ことにつながるのかどうか、 たぶん医学的な検証は為されていない。

自分たちの学問は、あくまでも「病気」になった人達を対象にするものだから、 病気じゃない人の「医学的にかくあるべき正しい姿」みたいなものは、定義ができない。

医学的な「健康」というのは、単純に「医師の出番がない状態」ではあるけれど、 その状態を維持するために、じゃあ健康な人は何を目標にすればいいのか、 自分たちの学問は、そんな目標をしばしば提示できない。

気持ちよく眠れる寝具「エルゴフレックス」が目指しているのは、背筋がまっすぐな寝姿。

お布団の構造は、科学的に考えられていて、恐らくはその効果の検証も、ある程度科学的に行われ ている印象。構造も機能も、「科学っぽい」のだけれど、科学的なやりかたで達成された「背筋まっすぐ」が、 果たして「いい眠り」とか、究極的には「健康な生活」につながるものなのか、その検証が為されていない以上、 この寝具が「医学的に正しい」とは言えない。

集中治療室で使われるのは、「熱傷ベッド」であったり、「絶対に褥瘡ができないエアマット」であったり。

買えば数百万円オーダーのこうした医療器具が目指しているのは、体にかかる圧力が 均一であること。医学的に目標が定められて、それを達成するための構造が、科学のやりかたで考えられて、 その効果も医学的に検証されたから、これはたしかに「医学的に正しいベッド」であるけれど、 目標にしてるのは「体圧均一」であって、「いい眠り」は管轄外。

こういうベッドはそもそも意識のない人を対象にしてるから、実際寝ても、あんまり気持ちよく眠れない。

医学的なるもの

カイロプラティックだとか、整体の人達は、「姿勢の悪さ、あるいは骨の歪みが病気を作る」という前提から出発する。

何か症状を抱えた人が来る。骨の歪みが検証される。歪みが発見されて、それが矯正されて、症状は「解決」する。

整体の人達も解剖を知っているし、骨のずれとか歪みを検証するやりかた、 それを矯正するやりかた、それぞれはたぶん、きちんとした科学的な裏付けが 為されているのだろうけれど、一番最初の前提部分、「症状の原因は姿勢の悪さであって、 それを矯正することで、その人は健康になる」という考えかたについては、 恐らくは科学的な検証が行われていない。

それを「医学的に」証明するためには、姿勢が悪い人と、そうでない人、他の病気の合併率とか年齢性別、 生活習慣なんかを一致させたグループを用意して、お互いのグループを、できれば10年ぐらい追っかけて、 死亡率とか罹患率がどう変わるのか、あるいは悪い姿勢を「正しく」矯正したとして、 そのことが果たして何もしなかった群と比べて、何か「健康」を生み出しているのか、 それを検証しないといけない。すごく大がかりな調査になるし、いろんな要素が結果を左右するだろうから、 「歪みをただすことが健康を生む」という考えかたは、たぶん医学的な正しさを獲得できない。

医学の正しさというのは、だから「医師が必要ない状態」、あるいは「診断可能な病気がない状態」とまでしか 定義できなくて、「これ」という目標を示せるケースは少ない。「病気でない」人に対しては、医学はだから案外無力。

正しさを追求して魔界に踏み込む

「正しい栄養」なんかは、定義不可能な魔界の学問。

病院で使っている経腸栄養剤は、大手の製薬メーカーが開発していて、成分だとか、効果の評価だとか、 医師だとか栄養士が何人も関わっているはずだけれど、大手メーカーが作っている栄養製剤には、 なぜか「コエンザイムQ10」が添加されていたりする。

ペットフードもまた、最近はいろいろと研究されたものが市販されて面白い。

新しいフードを開発した人のお話を読むと、みんなずいぶん苦労している。 市販のフードに不満を持って、「理想の栄養」求めて資料探して、案の定、「ペットの理想の栄養」もまた、 獣医学はきちんとした定義を出していないから、人間の栄養学を参考にしながら、試行錯誤を繰り返したのだと。

まじめそうな人が、きちんとした科学的な裏付けのあるフードを作ろうと努力して、 「やっと理想のフードができました」なんて発売された製品には、やっぱりなぜか「アガリクス粉末」が添加されてた。

寝具の領域だと、「トルマリン」だとか「遠赤外線」あたりが危険。構造的によく考えられてる寝具なのに、 なぜだかだめ押しに「トルマリン配合」だとか、「遠赤外線効果」だとか。あるいはエコロジー。 気持ちよく寝たいだけなのに、「地球に優しい素材」とか正直どうでもいいのに。

今回見せていただいた寝具には、そんな魔界ワードがなくて一安心したけれど、 案内して下さったお店の人は、最後に「金属が一切使われていませんから、電磁波被害も安心です」なんて。

健康はドーナツの中心部分

医学にとっての健康とは、ちょうど「ドーナツの中心」みたいなもので、そこにはそもそも医師の居場所はないし、 これからもたぶん、医療は「健康」を定義できない。

「健康」は、だから地図のない、またどこか中心を目指す必要のない場所なんだけれど、 健康を「追求」したいと思ったその時点で、その場所は魔界に変貌して、誰もが納得できるような「中心」は、 やっぱりどこにも見つからない。

靴とか寝具、椅子のデザイン、栄養だとか、生活習慣、運動のやりかた、健康食品。 何となく医療っぽい、でも今のところそこに医師がいない分野は、「健康」の周辺にはたくさんあって、 「医学の言葉で健康を語る」ことが実現されると、この分野には医師免許持った人間の千年王国が築けるぐらいに 広大な経済圏が広がっている。

えらい人の言葉一つで、広大なマーケットを医師が独占できるのに、 この分野は、キノコや水売る人だとか、整体だとかカイロプラティックだとか、医療じゃない人達にやられっぱなし。

医師本来のすみかがだんだんと不景気になって、これから先、「ドーナツの中心」目指して、 食い詰た医師が大挙する流れが生まれると思う。「よく眠れる寝具」とか、 あるいは医学的に検証が為されたものが発売されるかもしれないけれど、 今度はもしかしたら、「厳密な科学」としての医療は、どこか終わるような気もする。