伽藍の誤謬と戦局眼

2002年、ペンタゴンは、冷戦終結以降、最大規模の軍事作戦演習を行った。イランへの攻撃を想定した、「ミレニアムチャレンジ」と名付けられたこの演習は、情報化、ネットワーク化の行き届いた、最新装備の米軍が無敵であることを証明するための演習だったはずなのに、時代おくれの装備を与えられた「仮想イラン」軍に、「仮想米軍」は歯がたたなかった。

ポール・バン・ライパー退役中将が率いた「仮想イラン」軍は、ことごとく米軍の行く手を遮ることに成功した。

ペルシャ湾岸に入った米艦隊は、イラン軍の自爆船、対艦巡航ミサイルによる攻撃を受け、米戦艦のほぼ半数が沈められるか、作戦遂行ができない状態に追い込まれた。これはパール・ハーバー以来の大失態だった。

情報の伽藍に圧倒される

第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい」という本に登場するこのエピソードの主役、ポール・ヴァン・ライパー退役海兵隊中将がどうして強かったのか、この本を読んでもよく分からなかったんだけれど、別のインタビューで、将軍が「戦争において、情報は非常に便利だが、戦場で人を殺すのはいつだって弾丸だ」と語っていたのを読んで、何となく分かった気がした。

圧倒的な情報収集手段を手に入れた人は、しばしばたぶん、「情報の伽藍」を作ろうと夢見てしまう。たくさんの材料が手に入って、壮大な伽藍を夢見て、設計して、伽藍の壮大さに圧倒されて、それが完成するまでの間、道具であるはずの情報に圧倒されて、動けなくなる。

弾が撃てれば、人は殺せる。戦争で必要なのは、だから「弾を撃つための目標と、その根拠」が全てであって、「戦場全体を見渡せること」それ自体は、便利だけれど、必須じゃない。

「雨をしのぎたい」と思ったなら、柱を立てて、とりあえず屋根をかければ、その掘っ立て小屋は、すでに十分役に立つ。

伽藍に支配されてしまった人は、雨は降ってるのに、伽藍は8割方完成して、すでに居心地のいい大広間が出来上がっているのを目にしているのに、「未完成な伽藍」に圧倒されて、しばしば豪雨の中、無為に立ちすくんでしまう。

目的が雨をしのぐことであったなら、翌日濡れずにいた人が、もちろん正しいのだけれど、世の中はしばしば、「状況を正しく判断した人」よりも、「雨に濡れなかった人」よりも、「ずぶ濡れになりながらも伽藍の完成に尽力した人」を評価する。伽藍に支配された人は、だからしばしばいい評判を勝ち取って、伽藍が壮大になるほどに、仲間はますます増えていく。

戦局眼というもの

偉大な将軍に欠かせない資質だとか、「戦場にあって、一瞥にして有利、不利を見透かす偉大な才能」なんて説明されている「戦局眼」というものがあって、シミュレーションとはいえ、圧倒的な戦力差が想定されていた米国正規軍を圧倒してしまったライパー将軍の能力もまた、こうしたものなんだろうけれど、「戦局眼」というものはたぶん、「自分にできることとできないこととを正確に把握した上で、行動決定に必要なもの「だけ」を見る」ことができる目線なのだと思う。

「眼」なんて言葉が付いているから、戦局眼はなんだか、レーダーとか千里眼みたいな能力みたいに思えるけれど、戦局眼を備えた人の目線というのは、たぶん半分以上が、自分自身に向けられている。

自身と味方とに向けられた目線、自分たちにできることと、できないこととがきちんと把握できていなければ、行動を決断するのに、そもそも何を見ていいのか分からない。分からないなら、どれだけたくさんの情報を集めても、その人は、それを行動に転化できない。 「戦局眼を持った人」というのは、たぶん自身を把握する能力に長けていて、莫大な情報を前に、むしろ視界を限定することで、代わりに意志決定の速度を得ているのだろうと思う。

どれだけ莫大な戦力、莫大な情報能力を持っていたところで、意志決定ができないのなら、死体に等しい。

「最初の一瞥で物事を判断できる」超人的な能力を持った人の逸話というのは、たぶん「自分にできること」と、「それを決定するのに必要なこと」とを、それぞれ突き詰めて分かっている人が判断を行うと、それが他者からは「一瞬」にしか見えないということなんだと思う。

エビデンスの時代に大切なこと

質の高い情報を手に入れることが、本当に簡単になったけれど、研修医が莫大な電子データベースにアクセスできたところで、自分自身に向けられた目線を鍛えないかぎり、そもそも自分が何を分かっていないのか、それ分からないから、きっと動けないのだと思う。 知識を蓄えたり、手技を磨いたりすることと、「戦局眼」に相当する何かを身につけることとは、たぶん相当に異なる。エビデンス語るのに判断しない名医とか、何でもできるのに何もできない凄腕医師とか、このへんが、違和感の原因なんだと思う。

たとえば救急外来で、患者さんの治癒に貢献できる行動というのは、そんなに多くない。

病気は無数にあるし、病気の数だけ治療手段は異なるんだけれど、「できること」という数えかたをするなら、補液と輸血、ステロイド、抗生剤、気管支拡張薬、昇圧薬、あとは挿管とチェストチューブと、たぶん10指に余る。診断手段は無数にあって、正しい診断にたどり着くためには、伽藍を建てるほどの情報が必要だけれど、「たかだか10の行動」を決断するのに、人体全部の情報なんて必要ない。

医師として大切な資質は、だから分からない状況に陥ったときに、「自分には今問題解決の能力が欠けている」ことを理解できることなんだと思う。

「分からない」を「分かる」ためには、自分にできることと、それを判断するために必要な情報とを把握していないといけない。これができていれば、「分かるまで探す」こともできるし、「分かる誰かに問題を渡す」こともできる。これができていないと、「理解できないのは問題が悪い」なんて、無能の原因を患者さんに押しつけてしまったり、情報の伽藍に圧倒されて、必要なタイミングで動けなくなったり、しまいには、「それでも見ろ、壮大な伽藍がここにある」なんて、状態の悪くなった患者さんを前に、それが「正しく」思えてしまう。

「もっと適当にやるのが本当は正しいんだよ」なんて、なかなか分かってもらえないんだけれど、そういう本作りたい。

ルーデルの「武徳」と、カラシニコフの「誠実」、そしてライパー退役中将の「目線」、そういうものが伝えられればいいのだけれど。