交渉手段としての火砲と装甲

交渉ごとというのは要するに、「相手に何かをあきらめてもらう」必要が生じたときに発生するものなんだけれど、相手のあきらめを促す手段として、「ものすごい火砲」を見せるやりかたと、「分厚い装甲」を見せるやりかたとでは、交渉の質が異なってくるような気がする。

火力にできないこと

現代戦は「ミサイル」が主役になるから、分厚い装甲を装備したところで効果は薄くて、今の戦艦は、案外装甲が薄いのだという。それとはまた、理由は異なるのだろうけれど、民兵の武器はせいぜいライフルぐらいだから、「今の時代、戦車は不必要で、装甲車で十分」なんて議論もあるらしい。

状況を支配している軍隊に、ライフル程度の武器で戦いを挑んだところで、彼我の火力差をひっくり返せないのなら、勝負にならない。戦うことは無意味だから、理屈の上では、味方に圧倒的な火力があるかぎり、相手の武器に見合った装甲を持っていれば、戦いに負けることはないし、そもそも戦いは始まらない。

ところがイラクなんかでは、起きないはずの「戦い」が至る所で発生して、装甲を持たない車両で移動しているアメリカ兵に大きな被害が発生したり、パレスチナをパトロールするイスラエルでは、だから市街をパトロールする目的で「戦車」を導入して、一定の効果を上げているらしい。

「相手の火砲に見合った厚さの装甲を持っていればいいものじゃない」というのが、不謹慎だけれど面白い。

コミュニケーションとしての戦争

戦いというものも、たぶん数学ではなくコミュニケーションの問題なのであって、たとえ圧倒的な火力の差を持っていたところで、分厚い装甲があって、初めて成立する交渉というものがあるのだと思う。

圧倒的な火砲は、「戦ったところで、皆殺しだよ」というメッセージを伝えるけれど、圧倒的な装甲は、たぶん「戦っても、弾が無駄になるだけだよ」なんて、質の違ったメッセージを発信する。

火砲を前にあきらめた人は、「臆病者」になってしまうけれど、装甲を前にあきらめた人は「物事が見える賢明な人」になれる。同じ「あきらめ」を促す手段にしても、相手の面子を立てるのは、火砲でなく装甲のほうであって、こういうのはたぶん、コミュニケーションには大切なんだと思う。

戦わずして勝つために

「戦わずして勝つ」を実現するには、だから火砲を見せつけるよりも、分厚い装甲を見せつけたほうが、そうなりやすい気がする。

ただしその代わり、歴史上、「圧倒的な装甲」が状況を決定した戦いがあったのかどうか、そのへんがよく分からない。調べようにも資料がないんだけれど、なんとなく、無いような気がする。

Twitter では、「比喩においても現実においても、あらゆる場面で現代は盾より遥かに矛が強い」なんて感想をいただいたのだけれど、たしかにならば、自分たちの病院で、「法律という矛」以外に、理不尽な要求を通そうとしてやってくる人たち相手に、何かその人たちのあきらめを促すような「盾」に相当する機能があるかといえば、そもそもそんなものが存在しない。

「成功した盾」として、今現在、実社会で機能しているものというのは、何かあるんだろうか?