ゲームとジレンマ

ゲームとは

問題の中心にジレンマがあって、参加者が、自らの選択を通じてジレンマの解消を試みるとき、その状況は「ゲーム」であると言える。

ゲームにはルールがある。ルールとはジレンマの設計であって、よくできたルールは、 ジレンマの観察が容易で、「誰にでもできる簡単なことをふたつ同時に行おうとすると難しくなる」状況を内包している。

ジレンマ解消の先にあるもの

  • ゲームのルールがルールとして機能している時期、ジレンマに対する最適解がまだ見つかっていない時期のゲームは楽しい。 多様な戦略が提案されて、その多くは失敗するけれど、全ての失敗もまた、経験として参加者に蓄積される。試行のコストは低く、 失敗しても、失うものは少ない
  • ルールの中心に見えていたジレンマが解消されたそのとたん、ゲームはいきなり地獄になる。多様性を競った時代は終わり、 定番となったある戦略に、全ての参加者が収斂していく。アイデアの価値は減り、むしろグラム1000万円の素材を買うのに、 どれだけのコストをそこにつぎ込めるのか、資金力、体力の勝負になっていく
  • シトロエンと三菱が争っていたパリダカールラリーでは、「速い自動車」という漠然としたテーマの中から、 「とにかく大きくて丈夫な車を、砂漠の真ん中をまっすぐ走らせれば速い」という解答に行き着いて、 車の構造はむしろシンプルになった。その代わり、たとえば「ジャッキ」みたいな走行には関係ないパーツがチタン製に変更されたり、 地味でお金のかかる軽量化競争が始まった
  • 「カーボンボディ」という解答が発見されて以降の鳥人間コンテストは、チームごとの差違が、素人目には分かりにくくなった。 かつて6輪タイレルが走ってたF1は、ウィングカーやフラットボトムが発見されて以降、レギュレーションの変更もあって、 どのチームも同じようなデザインへと収斂していった
  • それが「本当の解答」でなかったのだとしても、恐らくは定番の戦略が生まれると、それを外すリスクや、失うコストが大きすぎて、 競合者は違った戦略をとれなくなってしまう。バイオ系の学科が、ひたすらピペットを動かす実験しかできなくなったのも、 たぶん「ゲノムの新発見で論文を書く」という、業界なりの勝利方程式みたいなものが確立してしまって、どのラボも、他のやりかたが できなくなってしまったからなんだと思う
  • 心カテなんかだと、「膨らませると血管が広がるけれど再狭窄しやすくなる」というジレンマがあった。風船を暖めたり、逆に冷やしたり、 放射線当てたり、血管削ったり、いろいろ試みられる中、薬物溶出ステントというジレンマ解消の技術が生まれて、アイデアが一気に収斂した
  • 今だと内視鏡による腫瘍切除の分野が、毎月のように新しいナイフが発表されたりして、アイデアがあふれている状態。あと数年して、 偉い先生が「ガイドライン」を作ったら、きっと同じやりかたに収斂するような気がする

ジレンマが解消されて洗練が始まる

  • 恐らくは洗練というものは、 ジレンマが不可視化していく過程なのだと思う
  • 最初の段階、大きなジレンマが解消されたあとは、そのゲームは、外野からは地獄の匍匐前進競争にしか見えなくなる。その状況は、 最前線で頑張っている参加者にしてみれば、やっぱりそこに別のジレンマが見えている。ところがそれは、ゲームに参加していない素人からは 見えないものだから、参加者全員が同じ方向に、体力を削りながらじりじり進んでいるようにしかうつらない
  • 外野にしてみれば、最初のジレンマが解消されて以降のゲームは、理解できないからつまらない。その代わりたぶん、 ルールからジレンマが追放されて、多様なアイデアが、地獄の収斂を経て、競争が、腕力オンリーの匍蔔前進になったときからが、 その技術の本当の進歩が始まるのだと思う
  • 蒸気と電気とガソリンが競ってた昔の自動車業界は、フォードが「ガソリン車を大量生産して安価に供給」という 勝利方程式を生み出して、この方向に収斂した。「タイヤ4つのガソリン車」という意味では、T型フォードと最新のスカイラインGTR と、 本質的な差違はないけれど、走らせてみればもちろん、フォードはGTRに追いつけない

ゲームデザインの失敗は難易度で代償できない

  • ゲームのデザインと、ジレンマのデザインというのは等価であって、ジレンマが何らかの手段で解消されたり、 あるいはジレンマのデザインに失敗すると、もはやそれはゲームでなくなってしまう
  • ジレンマのないデザインに「難易度」を導入したところで、それはやっぱりゲームにならない
  • 「内科や外科から人が逃げていく」だとか、「東京に医師が集中する」という問題も、 これは「医師の進路決定」というゲームが、そもそもジレンマのデザインに失敗していて、 そこに「進路を変更するのが難しい」という難易度を加えることで、それを無理矢理「ゲームである」と宣言していたのが、 そもそもの問題だったのだと思う
  • 制度が変わって、進路の変更が容易になった結果として、そもそもジレンマを持たない、 ゲームとして成立していなかった「進路決定ゲーム」の解答が、一つの答えに収斂してしまったのが、たぶん現在の状況
  • 時計の針を戻したところで、状況は変わらない。やるべきは「難易度の付加」でなく、「ジレンマの再デザイン」なのだと思う
  • 具体的には、ベッドを持ってリスクをとらない限りは報酬が生まれないとか、各専門ごとに「リスク係数」を設けて、 リスクの低い科に進むと生活できないようにするとか。ここを「報奨金」みたいな形で解決しようとしても、たぶん失敗する

ジレンマの深度問題

  • 「ジレンマを上手にデザインすれば、ゲームに難易度は必要ない」という、任天堂ゲーム風の考えかたは分かりやすくて、たくさんの ユーザーを楽しませるのだろうけれど、その反対側を志向して、「最初から定番戦略を示して、 ことごとくのユーザーを極め競争に引きずり込む」やりかたをするのも、お金引っ張るいい方法なんだと思う
  • ルールの入り口にはジレンマがあって、それを解消してさらに頑張ると、もっと深いところに、また別のジレンマが見えてくる。 ルールの世界というのは、ちょうど「漏斗」みたいな格好をしていて、奥に行けば行くほどに、差違は小さくなっていくけれど、 奥は無限に深くなっていて、一度入り込むと、今度は引き返すのにものすごい勇気がいるようになる
  • 漏斗上のルール世界を想定して、「どの深度で勝負をすべきか」を考えないといけないんだと思う。漏斗の入り口で勝負するなら、分かりやすいジレンマを設計しないといけないし、深いところで勝負するなら、参加者のアイデアよりも、むしろ「作業」や「仕事」を強調して、投じたコストがそのまま参加者の利得として跳ね返ってくるようなルールをデザインしたほうがいいのかもしれない
  • 自分のいる場所だとか、援用している技術の「ジレンマ深度」を知っておいたほうがいいんだと思う
  • たとえば自分は「内科診断」という、ジレンマ深度の浅いゲームで遊んでいて、「症状->病歴->診察->検査->診断」という定番のやりかたに対して、「症状->検査->診断->確認のために診察」というやりかたを提案している
  • この論拠になっているのは「検査が洗練されている」ことであって、CTを作っているエンジニアだとか、検査機器を改良している技術者の人たちだとか、あの人たちはたぶん、地獄みたいな洗練競争、ジレンマ深度の極めて深いところで頑張っている。だからこそ「洗練」と「進歩」が期待できて、自分みたいな技術の素人は、こうした技術に寄りかかることで、ジレンマ深度の浅いところで遊んでいられる
  • このへんを逆にして、「ジレンマ深度の浅い」技術に寄っかかりながら「ジレンマ深度の深い」場所で何かをしようとすると、自分とは全然違う世界のワンアイデアで、10年積み重ねてきた何かが容易に吹き飛ぶから、気をつけないといけない