203高地症候群のこと

「譲れない何かを守るために、あらゆる犠牲を惜しまず戦力を投入しようとして、目標を見失う状態」のことを、 個人的に「203高地症候群」と読んでいる。

こういうたとえ話として、203高地はそもそも正しくないみたいだし、そんなに珍しい状況だとは 思えないから、もっとふさわしい言葉があるんだろうとは思う。

自主規制という戦いかた

日本のゲームが「不道徳だ」なんて海外で叩かれて、政治の世界でそんなことが話題になって、 ゲーム業界の人たちは、いち早く「自主規制」を表明した。

問題が政治の具になって、現場の意図とは全く関係のないところで、杓子定規な「法律」が作られて、 そうなるとたぶん、業界全体が大きなダメージを受けてしまう。問題が大きくなる前に、 政府の先手を打つ形で自主規制を表明するやりかたは、戦略としてスマートだな、と感心した。

このあたり、自分たちの業界は、政府はもっと国民の健康を考えよだの、無知な裁判官が 医療の現場を滅ぼすだの、勇ましいスローガン叫んで、問題の「本質的な」解決を目指して、 恐らくはどの業界よりも、ロビー活動にたくさんのお金を突っ込んでいる割には、 ろくな成果が上がってないのと対照的だなと思う。

川を守るときには一歩退く

戦争のとき、敵が川をはさんだ向こう側に陣取っていて、味方がそれを守るときには、 川から一歩引いた場所で迎え撃つのがセオリーなんだという。

「敵が川を越える」というのは、何となく負けイメージだし、川の両側は土手だから、 川岸ぎりぎりで守備を行うと、なんだか固い守備ができそうなのだけれど、これをやってしまうと、 渡河した敵と、川向こうからの敵の援護射撃と、両方を相手にしないといけないので、 激戦になって、お互いのダメージが大きいのだと。

むしろ相手に川を明け渡してしまうことで、ちょうど相手の半分が川向こう、 半分が川を渡ったあたりで戦闘が始まる場所に陣を構えると、相手が分断されて、 少ない戦力を相手に戦闘を行えるので、川が守れていないようでいて、見かたの犠牲を最小限にできるような、 有利な状況で戦闘を開始できるのだという。

味方が守らなくてはいけないのは、もちろん味方の命であって、「川を明け渡す」というのは、 単なる象徴にしか過ぎないのだけれど、川を死守して味方の犠牲をいたずらに増やしてしまうような、 守るべきものを間違えた戦いかたというのは、たぶんいろんな場所でおきている。

味方が守りたかったもの

ゲーム業界の人たちがいち早く自主規制を表明して、業界の人たちは、そんな行動を通じて、 まずは小売りの人たちを守りたかったんだという。

問題が政治の具になれば、話がグダグダしている間、下手すると小売店が抱えた在庫を販売することも 難しくなってしまうから、業界は大きなダメージを受けてしまう。表現の自由だとか、 問題を大きくして、業界と、政治の人と、ユーザーの権利を賭けて全面戦争してみせるのが、 たぶん「本質的な」戦いかたなんだろうけれど、それが終わって、よしんば勝利を挙げられたとしても、 その頃にはもう、小売業者の人たちは疲弊しきって、業界は、立ち直れなくなってしまう。

勤務医の味方を自称する人たちは、政府の人を叩いて、官僚を叩いて、裁判官を叩いて、 問題を大きく、より「本質的な」戦いかたを目指して、実際のところ、現場の勤務医は減る一方。 拳振り上げて叫ぶのは、たぶんとても気持ちがいいんだろうけれど、患者さん診ようよって思う。

法律を変えるだとか、裁判をやり直すとか、たしかにそれは、本当の解決なのかもしれないけれど、 手の届く場所にいる味方を潰さないでほしいなと思う。業界挙げての全面対決目指して、 その割には、土日になったら「2週間前から食事が減っているようです」なんて、あの人たちはしっかりと、 週末を満喫する準備に余念がない。

現場から大事なコンポーネントが失われてしまったそのときに、あの人たちがきちんとそれを 補完してくれるなら、それはありがたいんだけれど。