西洋医学のアンチョコ本について

調べて考える余裕のない状況で、とりあえずとっさの対処を行いたいとき、 知らない疾患であっても、とりあえず知っているふりをしたいとき、 夜間に患者さんが急変して、まわりには他に、聞ける人なんて誰もいない状況に置かれたときに、 アンチョコというものは、しばしばとても役に立つ。

アンチョコ本をいくら読み込んだところで、体系的な医学知識を身につける役には立たないけれど、 お守り代わりに持ち歩いていると、何かのときに身を守ってくれる、そんなことを目標にした 本がいくつか出版されていて、今自分が書いているものも、一応そんな場所を目指している。

最近読んだ本について。

MGH Pocket Medicine

たぶん世界で一番売れている内科のアンチョコ本。マサチューセッツ総合病院という、 世界で一番有名な病院の先生がたが作った本で、300ページに満たない小さな本なのに、 これ一冊で内科全科をカバーしている。

読んでいると落ち込む。もう圧倒的によくできていて、これだけいいものが世の中で出版されているのに、 自分は今更何やってるんだろうなんて、土俵にも上がってないくせに、負けた気分になる。

読んだときの濃縮感がすごい。ほとんど全ての文章は箇条書きで、素っ気ないぐらいの簡単な英文なのに、 場所によっては成書でも隅っこにしか書かれていないような内容が詳しく記述されていたり、2007年出版の 本なのに、その年の論文が、すでに引用文献として取り上げられていたり。たぶん出版ぎりぎりまで編集作業を 続けていて、編集した人は大変だったんだろうなと思う。

編集方針が異様で面白い。一番売れている本に「異様」という形容はおかしいんだけれど。 この本は、「小さな成書」を目指していない気がする。ページを開けると、すぐに心電図の解説から始まって、 病気のお話しは、後ろのほうにくる。生き死にに直結するような疾患に、 必ずしも多くのページが割かれていなかったり、逆に滅多に見ないけれど見逃しやすい、 膠原病だとか、血管炎の解説が充実していたり、普通の教科書とは、体裁がずいぶん異なっている。

病態生理とも、統計的な疾患頻度とも関係のない、恐らくは「研修医の脳内心配世界」みたいな ものを想定して、そこにあわせて記載する知識の配分を決めている印象。MGHみたいな世界一流の病院スタッフが、 研修医の脳内風景にあわせて本気出すんだから、そりゃ売れるよなと思う。

すごく分かりやすい本だけれど、いわゆる「研修医向け」かといえば、ちょっと躊躇する。

リスクの高そうな治療であっても、容赦なく「こう治療する」みたいな断言形式で書かれてて、 どこか安全装置のかかってない武器を見ているような気がする。この本は、これを読んだ研修医に 「自分の足を撃つ権利」をきちんと保証していて、もちろん大けがする可能性もあるんだろうけれど、 ある意味これを読んだ研修医に、同じ医師として、筆者の人たちが敬意を払ってるようにも思える。

普段研修医向けに何か作っているときには、「研修医ならこの程度知っていれば」だとか、 「この書きかたは教育上よろしくない」みたいな、上から目線みたいなものから 自由になるのが大変なんだけれど、この本を書いている人たちは、良くも悪くもそういうものから 自由なんだと思う。

ちゃんと現場の兵隊から意見を吸い上げて、「教育」はとりあえず置いておいて、 とにかく研修医にとっての便利な本を作るんだ、という意気込みみたいなものを感じる。

もっともこの本の密度を支えているのは「小さなフォント」によるところも大きくて、 旧版の日本語訳本が500ページを超えている。当直あけにこの本を読むと、目が疲れてしまって、 文字を追っかけるのが苦痛でしょうがない。

Saint-Frances Guide: Clinical Clerkship in Outpatient Medicine

これも有名な本。「入院版」と「外来版」に分かれていて、今年の9月に入院患者版の新しいものが出版される予定。

西洋の語呂合わせだとか、「HotKey」という、忘れてはならない豆知識みたいなものが別枠で記載されていて、 分かりやすい。2冊に分かれている分、ページ数に相当余裕をとってあって、見た目の凝集感みたいなものは 少ないけれど、読みやすい。

特に「外来版」は広く浅くを志向しているところがあって、内科の本なのに、婦人科や泌尿器科、 皮膚科の症状にも相当なページ数が割かれている。

各章が独立するように編集されていて、どこから読んでも、その場、 その場の知識で状況を切り抜けられるようになっている。 自分みたいに、何か使えそうな文章だとか、図版を拾いながら読んでいると、だから役に立つ場所と、 そうでないところとの境界がはっきりしていて、使えそうなところは付箋を貼りながら、そうでないところは とばし読みができて、ありがたい。

家庭医向けの名著として紹介される本だけれど、研修医の人が読むにはカバーしている範囲が広すぎて、 たぶん病棟で役に立つことが半分ぐらいしかないから、夏に出る入院患者版を待ったほうがいいかもしれない。

On Call Principles and Protocols

自分が書いているマニュアル本の、元ネタというか、目次をそのまま利用した本。

「研修医の当直に役立つ」ことに目的が特化していて、目次や章立ては「看護師さんからの電話」順、 電話を受けて、電話口で聞くべきこと、病棟に行くまでの数分間で考えること、患者さんを見てから考えること、 患者さんの症状を見て、そこから致命的になりうるシナリオについて、それぞれ記載されている。

この本は、とにかく「研修医を守る」という意志が伝わってきて、好感が持てる。

イントロダクションとして、簡単な診察のしかたが記載されたあとに書かれているのは 「患者さんからの身の守りかた」であって、感染防御であるとか、針刺し事故を起こしてしまったときに、 自らにどんな治療を行うべきなのかとか、まずは医師自身を守って、それから患者さんと対峙する、という 編集方針があって、これはいいことだな、と思う。

当直に特化した編集で、患者さんの症状後との振る舞いかたに加えて、患者さんが暴れただとか、 死亡宣告に呼ばれたときの振る舞いかた、点滴ラインがつまったときの復活手段だとか、 たしかにこの本が一冊あれば、当直はずいぶん楽になりそうな、そんな予感が伝わってくる。

アンチョコ本の矜持

最近はずっと、こういった本に付箋を貼りながら、自分の原稿データにそれを反映、 もとい内容を丸写ししながら、少しずつページ数を増やしているんだけれど、やっぱりこういうのは、 西洋人上手だなと思う。

マニュアル本は、もちろん日本の有名病院もたくさん出版しているし、売れているものはたいてい 手元にあるんだけれど、日本で出版されている小さな本は、どちらかというと小さな成書を目指している雰囲気で、 研修医の役に立つというより、むしろ研修医を教育するために書かれているような気がする。

教科書としての体裁が整っている本はきれいだし、到達度テストみたいなものがくっついていると、 たしかに勉強には便利なのかもしれないけれど、500ページに満たない本は、やっぱり勉強に使われることを 想定するには無理がある。

有名な「ワシントンマニュアル」だとか、競合する「Practical Guide to the Care of the Medical Patient」 みたいな本は、研修医向けの簡易教科書として作られているけれど、A5 版で900ページ近くある。 版を重ねに重ねてあの分量なんだから、教科書として本を成り立たせるためには、 やっぱりそれが最小限度なんだろうと思う。

MGH のPocket Medicine みたいな本を研修医にもたれると、教える側は大変な思いをする。

「教育」というのはたいてい、重箱の隅みたいな知識をつついて、研修医に自分の優位を示した ところから始まるけれど、この本には、そうした「隅」がほとんど全て書かれているから。

いいアンチョコ本をもたれると、教える側は、研修医を「ずるいな」と思う。

あれを作ったMGHの人たちは、たぶん重箱の隅みたいな知識にすがった権威みたいなものを 「下らないものである」と看破している。圧倒的な能力差、実力差でもって、 研修医と対峙できる自信がないと、ああいう本は書けない気がする。

進捗状況

とりあえずこんな本から、記述だとか図版を移植しました。最初の頃から見れば、内容はずいぶん変わりました。

こちら から新版をダウンロードしていただければ幸いです。