インターフェースの身体性

「有限性、適応性、自律性を持った構造化インターフェース」としての、身体の面白さについて。

身体が生む小さく浅い世界

人工知能は計算的に「深い」アルゴリズムを使うから、外乱に対して弱い。

入力のわずかな変動が、出力においては大きな、予測不可能な変動を生んでしまう。 計算的に深いプログラムは、ノイズの少ない、シミュレーション世界では上手に 機能するけれど、実世界では役に立たない。

大きすぎる問題は、解くことができない。実世界という、あいまいで変動幅の大きな問題は、 AI にとっては要求される計算量が莫大になりすぎてしまう。

対象とする問題を強引に「小さく」できるなら、計算量をそれだけ減らすことができる。

「脳単体」としては存在し得ない人間の脳は、「身体」というインターフェースを介して世界と接する。 身体は、知性と世界との界面に介在して、脳からみた見かけ上の世界を、 小さくすることに成功している。

身体は物理的な制約を持っている。

水晶体を通じて網膜に入ってくる情報量は莫大だけれど、 網膜は情報の削減を行っている。網膜には「見たいものしか見えない」制御が かかっているし、眼球に対して全く動かないものは、認識され難い。

関節の自由度や軟らかさ、手足の長さのようなパラメーターは、 身体を、「こう歩くしかない」ありかたでしか効率的に歩けないよう束縛している。 スライムみたいな構造に比べれば、人体というのは圧倒的に不自由だけれど、 動作の制御に要する計算量は、それだけ少なく済んでいる。

脳から見た世界は、AI とは異なっている。身体を持たない、莫大な情報量を持った 実世界と、直接対峙することを強制されるAI と違って、身体を通じて脳から見える世界というのは、 少ない情報量と、少ない制御で介入可能な、「小さくて浅い」構造になっている。

人工知能研究者が志向する「実世界で動く AI」は、 本物の脳に比べて、最初から不利な条件を背負わされている。

差分抽出器としての身体

身体という構造は、世界から与えられる「外乱」によって変形して、 それまでの形と、外乱を加えられた後の形とを比較した「差分」を抽出する。

身体が行う「動作」は、たぶん関節の差分情報として記録されている。

何か動作を行う際には、中枢は、その差分情報を身体に入力する。 身体は、今ある環境に対して自らを安定させようと適応するから、 身体がおかれているた環境と、中枢から送られた差分情報とは、身体を通じて統合され、 新たな状況に適応した結果が、「動作」として出力される。

最も簡単な「身体系」として、筋肉と健、関節を仮定する。

  1. 筋肉の役割を持ったモーターに、腱の代わりにバネをつないで、 関節にそれらを固定しただけ。関節には角度センサーがついていて、 モーターは、関節の角度を一定に保つよう、センサーからフィードバックを受ける
  2. 外から関節を曲げると、バネが引き伸ばされて、関節は曲る。センサーは角度の変化を出力する。 モーターに差分情報が入力されて、関節は元の形に戻ろうとする
  3. 中枢は、「角度の差分情報」として、動作を指示することになる。モーターは動いて、 関節に加わる力と、バネの張力とが安定した時点で、関節の角度が決まる
  4. バネを持った、モーターの力に上限がある「関節」は、バネに加わる張力が最小になるよう、 状況に応じて自らの形態を変化させる

いくつかの関節を統合して、これらに周期的に「差分情報」を 加えていくと、歩行が発生する。足に入力される歩行情報は、環境が変化しても変わらないのに、 関節は状況に適応するから、外からそれを見ると、 あたかも複雑な制御を行っているかのように見える。

「学習」もまた、身体という差分抽出器を通じて行うことができる。 動作を「差分情報の集積」として直接記述するのは困難だけれど、 リハビリテーションのように、身体を外部から動かせば、 身体はそこから差分情報を抽出して、中枢に記録する。

外乱から差分を抽出して、差分から動作を創造する。 身体というものは、こんな双方向性を持っている。

身体は、実世界から与えられる外乱と、中枢からの指示とを区別できないし、 またその必要もないのだと思う。

知性にとって身体とは何か

恐らくは知性を表現する、あるいは感じるためには、 身体というものが欠かせない。「ソラリス」みたいな、 「身体を伴わない知性」を作るのは難しいし、 そんな存在が本当にいたところで、人にはそれを認識できない。

身体を持たない、純粋な人工知能は、世界を記述可能なものとして規定して、 実世界に存在するすべての情報を「見える」ものとして取り込もうとしする。 AI の振舞いを細かく制御するほどに、情報の粒度を上げるほどに情報は増えて、 計算量はますます多くなる。

身体を持つロボットにとって、制御装置から見える「世界」とは「身体」。 ロボットは、身体を上手に動かすことだけを目的にすればいいから、 制御の対象は記述可能で、しかも十分に小さい。

視覚や触覚も、「身体的な何か」を通じて知覚される。

眼球は画像を認識するために、常に細かく振動していて、画像は動作を通じて 知覚されるし、触覚もまた、「なぞり動作」を通じて、はじめて知覚され、出力される。

外界とのインターフェースに「身体的な構造」を記述することが、きっと役に立つのだと思う。

何かのサービスを提供するときなども、外乱に対して安定な状態を志向する、 自律的な、適応的な、そんな構造を仲介させることで、ユーザー側からも、 こちら側からも、「身体インターフェース」を介して同じ立場でやりとりができる。

そんなサービスは、ユーザー側からは、恐らく「知的に」見えるはずだし、 サービスを提供する側からは、顧客がどんな振舞いをしようとも、 予期せぬ出来事が原理的に発生しない。

身体に相当する構造を持たない組織とか、職業は、たぶんインターフェース部分でのトラブルを 避けられない。医療とか、教育とか、あるいは「役所仕事」に代表される業界にはこの構造が 欠けていて、ユーザー側からそれを見ると、すごく頭が悪く見えるし、こちら側もまた、 ユーザーの振舞いを予想できないから、トラブルを回避できない。

ロボット工学の人達がいくら頑張ろうとも、身体は本来、医療が独占している分野。 新しい考えかたとかサービスのありかたなんかは、あるいはこれから、 きっと整形外科医あたりから出てくるのだと思う。