錯覚が知性を感覚させる

フランスのテレビ番組「シューティングゲームの歴史」の中で、 プレイヤーの人が「弾幕を介して、開発者の人とコミュニケーションしている」なんて喋ってた。

チェス専用のコンピューター「ディープブルー」と対戦したロシアのチェスチャンピオンは、 「相手は機械なのに、まるで異質な知性と対決しているようだった」と感想を漏らした。

知性について。

知的であること知性を感覚すること

自閉症の人は、しばしば十分な知性を持っているにもかかわらず、 「空気を読む」とか「相手の感情を読む」とか、相手に心理を観測するのが苦手なんだという。

自閉症の動物行動学者がいて、人間の感情は分からないのに、 動物がどうしてそんな行動をするのかはよく分かるんだという。 実際に動物を安心させる道具を設計したりして、自分の観察を実証している。 その人はたしかに知的であって、たぶん嘘もついていないんだけれど、 やっぱり人間の感情のことは、よく分からないらしい。

知性とか、感情は、それ自体として「ある」のではなくて、 それを観察した当人の、頭の中に「発生する」。

「本物の」知性は存在しない。知性というものはたぶん、「錯覚という感覚」を経由して、 初めて観測される概念だから。

チューリングテスト」の勝利戦略

「ある機械が知的かどうか」を判断する試験、「チューリングテスト」をパスした機械は、 まだ存在しない。人工知能を研究する人達の目標。

コンピューターの能力どれだけ向上しても、それだけではたぶん、 テストにパスすることはできない。

「知性」というものは、観測者の中に発生する。 観測を必要としない、「知性それ自体」 はそもそも存在しない。

知性を感じさせる、チューリングテストに合格する機械を作る戦略には、 「機械の性能を上げる」やりかたと、「知性を感覚する閾値を下げる」やりかたとがあって、 後者抜きの戦略をいくら追求しても、その延長線上に「勝利」はない。

どれだけすごい機械を作っても、すごさが観測者にとって既知になった時点で、 知性の感覚閾値は極めて高くなる。「コンピューター」という概念が人類にとって 既知になった現在、性能向上戦略は、勝利にほとんど貢献できなくなっている。

表情の役割

ソニーが作った音楽ロボット「Rolly」には、「顔」に相当するパーツがない。 イラストレーターの安倍吉俊氏が、「Rolly には顔か、顔を連想させる何かを 設定すべきだった」なんて書いておられた。

目や口は、目や口は、コミュニケーションの本質ではないけれど、 人間は恐らく、そんな記号を発見することで、 「これはコミュニケーションを行うものなんだ」という思考をはじめる。

機械が発信するシグナルは、単なるノイズにしかすぎないけれど、 それが「機械がコミュニケーションを求めている」と認識されたとき、 その人はきっと、機械の中に知性を見出す。

機械にとって、「顔」というものは必要ないけれど、それを観察する人間側にとっては大切。 「顔を持っている」存在を前にすると、恐らく知性を認識する閾値が下がる。

知性は「ある」のではなく、「錯覚」される。 機械の絶対性能は、知性の有無には関係ない。

対話は日常をフックする

シーマン」とか「アイドルマスター」みたいな、対話要素が入ったゲームから 知性を感覚するのは不可能だと思う。 形態素解析が完璧になって、プレイヤーが自分の言葉で喋れるようになってもなお、 プレイヤーはたぶん、「よくできた機械と喋った」という認識を越えることはできない。

対話みたいに高度な技術を作らなくても、シューティングゲームとか、 コンピューターを相手にしたチェスみたいな、単純なメディアから知性を見出す人はすでにいる。 コンピューターチェスに知性を見出したのは、グランドマスターただ一人だけれど、 弾幕のむこうに「必死さ」とか「殺意」とか、「何か」を感覚した人は、たぶんけっこう多い。

状況設定が大切なんだと思う。

スタンフォードの監獄実験みたいに、適切な環境と、その状況における役割さえ 与えられれば、人間はいくらだって卑屈になれるし、残忍になれる。

最強のコンピューター「ディープブルー」を前にしても、ほとんどの人は、 そこから知性を見出せない。チェスが相当に上手な人であっても、 やっぱりたぶん、「強いコンピューターですね」という感想しか出て来ない。

ディープブルーに知性を見出したグランドマスターと、それ以外の多くの人とを分けたのは、 「人類代表」という状況設定。ディープブルーと対戦したグランドマスターは、 たとえ本人がそう望んでいなくても、みんなから勝手に「人類代表」の状況を押し付けられて、 文字どおり人類の希望を背負って戦ってた。

それは日常生活ではありえないから、たぶん「錯覚」の閾値は大きく下がっていたはず。 ディープブルーはたしかにすごかったのだろうけれど、恐らくそれだけでは知性は感覚されない。 知性に大きく貢献したのは、ディープブルーそれ自体よりも、「人類対コンピューター」という状況だった。

対話は日常をフックする。対話メディアを用いたコミュニケーションは、 だから観測者を日常から引き離せないから、「コンピューターに知性はない」という 常識が観測者を縛って、知性の感覚閾値を引き上げてしまう。

日常を取り払って、「本気」に引きずり込まれる状況設定をちゃんと作れれば、 知性を感覚する閾値は大きく下がる。シューティングゲームみたいに、 絶望的な役割をプレイヤーに割り振ったり、ドーム没入型ディスプレイみたいに、 プレイヤーの周辺視野に至るまで「乗っ取る」ことができたなら、 ごく単純なシグナル交換は「コミュニケーション」と認識されて、 誰もがそこに知性を見つけるはず。

「錯覚閾値」の考えかた

知性は要するに、実体を持った「アルゴリズム」としてのみ存在する。

アルゴリズムは動作しないと観測できない。アルゴリズムに状況が 入力されて、下された判断が、状況に投影された影絵として観測される。

観測されたアルゴリズムの投影は、さらに観測者により「錯覚」を受けて、 そこで初めて、知性の有無が査定される。

人工知能に取り組む人達は、アルゴリズムの改良に邁進する。知性にとっては、 それはもちろんもっとも大切なものだけれど、他にもやるべきことはある。

アルゴリズムが投影される「状況」を記述して、観測者の「錯覚閾値」を下げるやりかた。

知能が高い自閉症の人は、錯覚閾値が高すぎるから感情が読めない。 その代わり、状況を正確に読めるから、「動物の感情」は分からなくても、 動物を正しく行動させることはできる。

ディープブルーと対峙したグランドマスターは、相手が統計を利用したコンピューターだと 分かっていてもなお、人類代表という状況設定が錯覚閾値を下げて、そこに知性を見出した。

「認識」と「錯覚」とは、たぶん区別ができない。

音は本来「耳」が知覚するものであって、「それが鳴っている」という知覚はすでに錯覚。 視覚も同じ。「見ている」場所は網膜であって、「そこ」という考えかた自体、 頭の中に描いた世界に、網膜からの入力を無理やり当てはめて、錯覚を行っている。

人類の運命背負ったセカイ系の状況設定とか、周辺視野まで乗っ取った没入ディスプレイとか、 会話や顔グラフィックを介さないシグナル交換というものは、 全て「錯覚を誘発する」ベクトルに乗っかる何かであって、 恐らくそんなやりかたの延長線上に、「知性の認識」があるんだと思う。