真実の論理脆弱性

痛みの定量問題

「痛み」「苦しみ」みたいな、定量不可能症状は、評価をするのが難しい。

医療主義は、患者さんの訴えというものは全てが真実であって、 痛みや苦しみの原因は、もちろん患者さんの体内から発生すると考える。 ここを外すと、この商売は根本から成り立たなくなってしまう。

医療主義の通用しないケースはたくさんある。 痛みを訴えることで麻薬を手に入れようとする人たちであったり、 あるいは本人の自覚症状それ自体が、家族に心配してもらうとか、 何かの利益につながっているケースであったり。

家族がおろおろすると、あるいは主治医が近づいてくると、痛みが落ち着く人がいる。 家族が無視したり、医師が立ち去ろうとすると、痛みが強くなる。 こんなケースでも、本人の脳は「本当に」痛がっていて、 主治医がもしも「ウソでしょう?」なんてもらしたら、大変なことになる。

機能 MRIみたいな機械の発達や、あるいは痛み伝達物質の濃度を簡単に測定することが できるようになっても、「痛み」問題は解決しない気がする。 機械が表示しているのは、あくまでも脳血流とか、物質の血中濃度であって、 痛みそれ自体は測定できない。機械が仮に「痛くない」表示を出したところで、 本人が痛みを訴えたなら、たぶん誰にも、それを覆せない。

行動主義の考えかた

医療主義から自由な人達は、痛みや苦しみの原因を、患者さん以外の場所に求める。

行動主義の人達は、「患者さんが痛みを訴えるために要した仕事量」と、 その訴えを通じて患者さんが手に入れた、「周囲の人達の仕事量」との差分として、 痛みの定量を試みるかもしれない。

痛み収支が黒字、訴えによって得られる利益が大きいならば、その患者さんは訴えほどには 「痛くない」かもしれないし、収支が赤字、利益なしの訴えならば、 その患者さんはきっと、本当に痛い思いをしているはず。

こんな考えかたは、患者さんの人格とか、重症度を無視しているし、 何よりも実体としての「痛みそれ自体」をまったく見ていないけれど、 その代わり、「痛みを測定する」という目標には、案外近い気がする。

中国の餃子騒動のこと

いろんなところで話題になっている毒餃子のニュース。 「人間としての犯人」を想定して、報道されるいろんな事実をつないでいって、 餃子に毒を混ぜられる状況考えている人と、日本と中国の政治的な立場だけを考えて、 「日中両国に最もダメージの少ない落しどころ」を考えている人とがいる。

もちろん、中毒を生じて入院した人がいるのは間違いのない事実だけれど、 「事実」に影響を受ける人が圧倒的に多い、今回の事件みたいなケースだと、 たとえ犯人が自首してきたとしても、「それが真実だった」なんて納得は得られない。

冷凍餃子のパッケージに傷がついていたとか、工場の中は少なくとも清潔に管理されていたとか、 「事実」をつなぎ合わせた先は、「誰か日本に反感を持った個人の犯行だ」なんて結論だけれど、 「ルールに従わない個人の犯行」というのはまた、政治的に、最もダメージが少ない落しどころでもある。

今回の事件なんかは、たとえば「原因は小麦に入った農薬で、出所は不明で、犯人も不明」なんて 結論になったら、たぶん中国が受けるダメージは計りしれない。「倉庫に忍び込んだ犯人が原因で、 その人を逮捕しました」なんて結論ならば、少なくとも日中両国で交わした「ルール」は傷つかない。

「ある」はずのものをひたすら探すやりかたと、 「ない」ものを片端から除外していって、状況が取りうるあらゆる可能性の中から、 彫刻みたいに「ある」を削りだすやりかたと。

事実はもちろん「ある」ものだから、 後者のやりかたは邪道だけれど、状況を定量するやりかたが難しいほど、 状況にかかわる人の数が増えるほどに、「ある」を探すのは難しくなって、 「ない」を除外するやりかたが、しばしば役に立つ気がする。

真実の論理脆弱性

たぶんどんな真実にも「論理脆弱性」というパラメーターがあって、 真実をドライブする人達は、自ら運用している真実の脆弱性に、 常に自覚的でないといけないんだと思う。

たとえば道路の舗装に使うアスファルトなんかは、たとえばそれが癌の原因となったり、 あるいは特定の小児疾患の原因であると名指しされる脆弱性を抱えている。

アスファルトは、ローマ時代から使われている舗装の定番。日本中の道路が 舗装されて、今はもう、「新しい道路は無駄」なんて考えかたが正義になって、 道路で食べてた会社とか、利権貪ってた議員の人達とか、たぶん相当困ってる。

「道路を作る人達に残された仕事は、これから先は修理だけ」なんて状況になれば、 業界全体は本当に困る、はず。「道路のレガシー化」を食い止めようと思ったならば、 「道路は必要なんだ」と力説することもできるけれど、たとえば 「アスファルト道路は実は身体に悪かった」なんて、全く別の正義概念を打ち立てて、 正義の考えかたそれ自体を流動化させるやりかただってできるかもしれない。

「道路舗装が癌を生む」仮説なんて、たぶんまだないはずだけれど、 どこかの学者がこんなこといい出して、それが「科学的に証明」されたなら、 日本中の土建業界に、すごい量の仕事が発生する。日本再舗装計画みたいな。 新しい道路を作ることは正義に反するけれど、道路議員の人達が「子供の未来のために」 なんて涙ながらに訴えたら、それはきっと、「これ以上の道路予算は無駄」なんて正義を 運用する人達に、相当なダメージとなって効いてくるはず。

少なくともこの数千年、アスファルト舗装された道路のそばに住んでる人が、 癌でバタバタ亡くなったなんて話はないんだけれど、 そんな「事実」を要請する土壌だけは、もう十二分に整ってる。

「道路は癌を作らない」なんて事実を守る責任は、むしろ「道路は無駄」という正義を 運用する人達にこそあるのだと思う。

市場が事実を査定する

「事実」というのは、観察と仮説から発生する、はず。

でももしかしたら、「こんな話があったらいいな」というみんなの思いが極めて強力に働いたとき、 何もないところから「事実」が発生することだってあるのかもしれない。

「事実の真実性」というのも痛みと同じく、しばしば定量不可能な概念で、 そんなものを測ろうと思ったとき、「科学的な方法論」というのは案外無力だったりもする。

統計学は本来、こんなグレーゾーンにメスを入れる学問だけれど、あの人達の「それは違うんじゃない?」 なんて指摘は、たいていの場合、現場の強い反発で報われる。「統計好きな医者は、 学生時代に友達作れなかった暗い奴が多い」とか、 「いじめられっ子がエクセル君と涙の特攻ですかwww」とか。

陰謀論紙一重ではあるけれど、こんなとき、「事実の発見に要した仕事量」と、 「その事実が生み出した利権の量」とを比較してみると、きっと何か面白いことが分かる。

事実が状況を駆動したのか、それともまた、状況を駆動したい人達が事実を要請して、 誰かがそれに乗せられたのか。

それを決めるのもまた、結局のところ「市場」なのかもしれない。