幸福の複雑性

社会の「成功」を、富の大きさで判断することは正しいんだろうか?

たとえば「文字数」は、本を表現するパラメーターのひとつではあるけれど、 文字数それ自体は、「本の面白さ」を保証できない。白紙はつまらないけれど、 文字が膨大だからといって、その本が面白いとは限らない。

面白さというものは、「白紙」と「膨大な文字数」との間にあって、 文字数という測定可能な数字では表現できない、「複雑」な何か。

「幸福感」みたいな社会の空気もまた、そんな「複雑さ」に属するパラメーターなんだと思う。

漁礁を作る人

漁獲量を増やしたい漁師は、そのへんの岩とかスクラップを 海に投げ込んで、「漁礁」を作る。漁礁は藻が生える場所を作ったり、 魚が逃げ込める空間を提供したりして、生態系を複雑にする。

自由経済最高、格差上等」なんてやりかたを進める経済畑の人達は、 「海底埋め立ててフラットにしたら、漁獲量増えて最高だよ」なんて主張。

そんなやりかたは、あるいは海が生み出すたんぱく質の総量を増やすけれど、 もちろんそんなことしたら、生態系壊れて地球が滅ぶ。

海の生産性、純粋な「肉の量」なんかじゃなくて、漁師の人達が海から引っ張るお金を増やすために 昔からやられているのは、やっぱり漁礁。海底の見通しを悪くして、環境の複雑性を増すようなやりかた。

フラット化が進んだ、今の格差社会はたぶん間違ってる。

間違ってるからこそ、「間違ってる」と主張する側は、 それに対抗する社会プランを提出する義務を負う。 恐らくそんな社会プランは、ばらまき上等のズブズブ福祉国家なんかじゃなくて、 社会の複雑性を増すような、「社会に漁礁を作る」ような政策。

個人的には、そんな「漁礁」を、地域貨幣の導入で作れるように思う。

「自由円」と「地域円」

生活保護のお金とか、あるいは道路工事で業者に支払うお金なんかを、 その地域でしか使えない「地域貨幣」で支払うところから始めればいいんだと思う。

全国区のお金が持つ問題点は、なんといってもその流動性の高さ。道路代とか「箱」代とか、 地元業者にお金が流れても、その人がコンビニエンスストアで弁当を買えば、そのお金は 東京にある本社のもの。地元救済のためにばらまかれたお金の多くは東京に集まって、 地域に「根付いた」富なんて、コンクリートの固まりばっかり。すごくもったいない。

額面は「自由円」と同じだけれど、その地域でしか流通できない「地域円」を県が発行すれば、 お金をお金のまま、その地域に残すことができる。

県が無制限に「地域円」を発行すると大変なことになるから、実際には県庁の金庫に「自由円」を ため込んで、それと同額の「地域円」を発行することになる。地域円は、不自由なぶんだけ 価値が下がる。県は地域ごとの「両替レート」を設定して、たとえば「1 円は1.4 長崎円」みたいな 告示を議会で決定する。

「両替レート」というのは、生態系で言うところの「地形」、山であったり海であったり、 暖かいところとか寒いところとか、そんな環境を複雑にするための道具として機能する。 地形効果を高める意味で、企業には、「労働の対価」を「自由円」で支払う義務を負ってもらう。

  • 地域円の両替レートが高い、地域円が「弱い」地域は、たぶん生活コストが安くなる。 同じ給料を得ても、地域円が弱いぶんだけ、「みかけの収入」が上がるから、その地域で生きていくのは楽になる。 その代わり、他の地域から何かを買うために必要な「自由円」を調達するのは難しい
  • 元々充足している便利な地域は、地域円を弱くする理由がない。 地域円が「強い」地域は、全国展開する流通業者にとって商売をやりやすい地域になるけれど、 地域通貨の収入増加効果が期待できないから、収入が低い人は住みにくい

議会はたぶん、「両替レート」を上下させる行為を通じて、自らの地域に特色を出すことができる。 対価が少ない、労働集約型の産業を誘致しようと思ったら、両替レートを高くすることで人口増加を狙ったり、 「オラが村はあくまでも東京目指す」みたいな考えかたの地方自治体は、たぶん両替レートを低くして、 全国展開する業者を引っ張ろうとする。

全国区のメーカーにしてみれば、たとえば車を 1台売ったとしても、 地域通貨を「自由円」にして東京に送るときに、両替のコストが発生してしまう。 地域円が「弱い」場所での商売は不利だけれど、代理店を全国展開しなければ、売上げは上がらない。

アニメーションスタジオみたいなコンテンツ産業であったり、コンピューターソフトをネット販売するような 企業になると、流通のことを考えなくていいから、今度は通貨が弱い地域のメリットを活かせる。

両替レートは市場に任せないで、「議会」で決める。ここを自由市場に任せてしまうと、 せっかくできた「山」や「海」は削られ埋め立てられて、結局元のフラットな土地に戻ってしまう。 個人レベル、非公式なルートでは、きっといろんな取引が生まれるんだろうけれど、 それもまた、環境を複雑にする方向に働くはず。

「一つの貨幣」で得をする人

「世の中に貨幣は一つ」なんて考えかたを常識認定することで利権を得てきたのは、 何といっても銀行家の人達。

石油の量も、小麦の収穫も、自分達の財布の中身も、何一つ変わらないのに、 気がついたら価格が上がって、財布の中身が相対的に減る。「減った」中身は要するに、 貨幣を運用する銀行家のポケットに集まってしまう。

それがどんなものであれ、利権を得ている人達は、やっぱり何だかずるい。 だからこそ「貨幣の多様化」を求める行動は、銀行家の利権に対する反対意志を表明することにつながる。

通貨の統合とか、「一つの世界」みたいな理想論は、何だかどこかいかがわしい。

生態系で「一つの世界」をやろうとしたら、川床はジャンボタニシで埋め尽くされて、 カブトムシやらモンシロチョウやら、昆虫類はアメリカゴキブリに食い尽くされる。 「勝者が全てを得る」グローバル社会は、たしかにその土地が生産するたんぱく質の 総量を増やすけれど、ジャンボタニシとゴキブリしかいない森を見て、 「豊かな自然でしょう?」なんて胸張れるのは、オリックスの宮内会長ぐらいだと思う。

自由通貨の政治機能

地域通貨制度は、たぶん生活に対するいろんな考えかたを許容する。 何か好きなことをやりたくて、生活はそこそこでかまわないなんて考えかたの人ならば、 たぶん「通貨の強い」地域に住む理由は少ないから、もっと住みやすい場所を探すだろうし、 全国区で何かやりたい、「便利」に対価を惜しまないような人ならば、東京をはじめとした 都市部に住む理由ができる。

地域通貨流動性を放棄したのと対になる形で、「自由円」はもっと流動性を高める方向に 進化すると面白いなと思う。

今はまだ、現場を回してる特定の誰かに対価を支払いたいと思っても、 そこには「何とか委員会」とか、何のためにそこにいるんだかよく分からない爺さんが濡れ手で粟して、 ウハウハ喜ぶのばっかりよく見えて、何だか楽しくない。通貨の流動性は、まだまだ全然足りてない。

完全電子化、クリックひとつでどこにでも行ける、流動性が行きつくところまで行った通貨は、 消費すること、投資することそれ自体が、 その人の意思を表明する手段になりうる。自由な通貨を持っていることそれ自体が政治参加になるから、 政治という機能はたぶん、自由な通貨を持っていることと等価になっていく。

そんな流れは要するに、「お金持ち以外は政治参加できない」社会を作ることに他ならないから、 自ら生活する地域を特徴付ける「両替レート」だけは、だからこそ地域の議会が決定する。

ちゃんと回せれば政府いらなくなると思う。

分からないこと

「ヨーロッパは通貨統合して豊かになったよね?」と突っ込まれたけれど、 たしかにそのとおりで、反論できなかった。社会の「複雑さ」に相当するパラメーターは 測定不可能だから、そのへん議論ができない。パリの人達がマクドナルドをぱくつく社会は、 果して「豊か」といえるのか。それとも収入大切で、余計なお世話なのか。

「銀行のATM 打ち壊して、おっさん座らせたら複雑だよね?」なんて突っ込みも、反論できなかった。 それをやるとたしかに社会は複雑になって、おっさん一人ぶん、確実に世の中不幸になる気がした。

とりあえず公共事業費と生活補助費を「地域貨幣支払い」にするルールから始めると、 昔ながらの利権とバッティングしないで、「そこに金が落ちる」構造作れると思う。

何年かして、お金がある程度まわり始めて、全国区の「自由円」への両替欲求が高まったら、 今度は議会で「両替レート」を設定して、自分達の地域に「地形」を作る。

たぶん、もう少しだけ地方に住む理由ができて、日本全体での生産性はわずかだけ下がって、 その代わり、社会が生み出す「複雑性」は、今よりもう少し高まる気がする。

きっと面白いと思う。