帯域制限のこと

帯域制限という言葉にずっと引っかかっている。

  • 視覚や触覚は、センサーの情報全てを脳に伝えるわけではなくて、 脳からの指令で「見たいものだけを感覚する」制御を受けて、センサーの段階で情報制限をかける
  • 生まれてばかりの子供の手足は、大人以上に自由に動くけれど、歩けない。重力に適応して、 動作に制限をかけることで「歩行」を獲得して、人は歩くようになる
  • 味覚に形を感じたり、言葉や数に色を感じる「共感覚」の人というのは、その性質を役立てている。 「より尖った味付け」を工夫できたり、文字に色を乗せられるから、多言語を習得できたり
  • もちろんメリットばかりではなくて、数万桁の円周率を暗記できたり、暗算能力がずば抜けて いるサヴァン症候群の人は、数や規則へのこだわりがものすごくて、日常生活能力は低いらしい
  • 共感覚というのは、脳に入力される情報の帯域制限が取り払われて生じる。こんな人達は、大脳辺縁系の 機能が低下していたり、辺縁系の働きを取り払う「亜硝酸アミル」なんかを吸入してもらうと、 共感覚能力がますます激しくなるらしい
  • 思考もまた帯域制限。まじめに考えると計算的爆発を起こしてしまって判断ができない問題、 「隣の部屋にある爆弾を解体しろ」みたいな定義ぬきの問題は、人間は感情の力を借りて、 半ば強引に思考停止をかけて、解決してしまうらしい

外界を観察するセンサー部分にも、外界に影響を与える手足にも、あるいは 制御を行う思考部分にも、常に「帯域制限」という考えかたが顔を出す。

電話回線よりも光ファイバーのほうが圧倒的に快適なように、帯域というのは 広ければ広いほど「いい」ものであって、それが狭いことによるメリットなんて、 日常生活ではあんまり感じない。

人間を作っているいろんな部品は、そのどれもが「ブロードバンド対応品」ばっかりで、 神経回路ですら、共感覚の人なんかをみる限りでは、辺縁系に入る以前の神経からは もっと豊かな情報が送られて来ているのに、脳にはいる段階でそれは帯域制限を受けて、 頭にはつまらない日常の風景しか感覚されない。

慣れるとか、上手とか、学習するとか、プロになるとか、人間にとって「いい」方向への 変化というのは、どういうわけだか、どれも帯域を制限する方向への変化。 職人の動作は機械そのものだし、一流スポーツ選手の動作なんかも、 よく「精密機械」なんて表現されて。

写実画にしても抽象画にしても、同じ構図でとったデジカメ写真の情報量に比べて しまえば、絵画が持つ情報量というのは圧倒的に少ない。芸術というのは要するに、 画家の「帯域制限の手法」を鑑賞する娯楽。

ド素人の下手絵と、有名画家が描いた抽象画。「本物」がしばしば人を感動させるのに、 そうでない絵は単なる落書き。落書きと芸術とが、仮に情報量としては同じ程度、 使っている色の数とか、使った絵の具の量なんかが同じであったとしても、 やはり芸術は芸術で、落書きは落書き。

おそらくは、落書きが行っているのは情報量の削減で、芸術家が行ったのは、 情報量の「圧縮」。それは可逆的に展開可能なものだから、鑑賞する人の 視覚を通じて脳に達した圧縮ファイルは、そこで展開され、鑑賞者の脳を「ハック」して、 そこに感動を呼ぶ。同じ構図のデジカメ写真は、情報量としては 圧倒的に多いのだけれど、今度は鑑賞者自身の感覚で帯域制限がかけられてしまうから、 脳に達する情報量は少ないのかも。

試食のプロフェッショナルは、たとえばクッキーの味わいを90ものパラメーターで表現して、 プロどうしで味についてのディスカッションができる。このお話の驚きどころは パラメーターの「多さ」ではなくて、むしろ「少なさ」。プロフェッショナルの人は、 「おいしさ」という漠然とした概念を、高々90の単語を用いるだけで抽象化して、 情報を落とさないで言語化して、それを仲間と共有する。素人が概念の言語化を行う際には、 必ず情報の欠落が生じる。

欠落するからこそ、素人の人は、自分がほしいものを 自分の言葉で表現することは絶対できないし、言語化の過程を通じて、 自分が本当にほしかったものがなんなのかを思い出せなくなってしまう。

人間を作るいろんなモジュールのどこかには、たぶん「帯域が狭いことで利益がある」 何かがあって、それがこうも執拗に、身体に帯域制限を迫っているんだと 思うのだけれど、それが今一つ、何なのかわかならい。

狭いからこその意識とか、人間なのか。それとも並列化とか、パイプラインの実装なんかで、 帯域の壁を越えた先に何かが生まれるのか。

昨日の続き。そんなわけで、概念としてはもっとおもしろかったはずなんだけれど、 上手に言語化できない…。