新技術におけるピーターの法則

新しい技術は、最初「マニアックな技術者の玩具」として世の中に登場する。

登場したばかりの頃、新しい技術は「遊び」によって牽引される。 遊びを通じて多様性を獲得したその技術は、それを面白がるユーザーを増やしていく。

技術の使いこなしであったり、応用のしかたであったりといったものは、 この時期にほとんどが提案され、検証されてしまう。

ユーザーが増えていくと、技術を引っ張る原動力が「自慢力」へと変化する。 「自慢」はルールを要請する。多様な応用例は、あとから来た技術者の「委員会」 によって整理され、「委員会」が承認するやりかた以外は意味がないものとして無視される。

生まれたばかりの赤ん坊は、あらゆる動作の試行錯誤を通じて、 重力環境に適応した「歩行」という動作を獲得する。「委員会」によるルールの限定は、 こんなやりかたを思い出すけれど、ルールの限定を要請しているのは現場じゃなくて、 むしろ現場なんかに興味のない、委員会の面々。

自慢力が駆動するのは、「少しでも厳密に」「少しでも多く」といった、 漸進的な極端化の競争。

競争の果て、新しい考えかたは、それが現場にとって有害になるまで極端化されて、 そのうち現場から見捨てられてしまう。

現場から一度見捨てられて、新技術ははじめて「実用品」として認知され、 現場にニッチを獲得する。

最初はみんな「マニアの玩具」

マスクを使った人工呼吸器にのめりこんだのは、もう10年も前。

気管内挿管を嫌がる肺炎の患者さんがいて、しかたがないので酸素マスクに 人工呼吸器をくくりつけて、それで急場をしのいだのがはじまり。

とても珍しいやりかただったから、病院新聞の 「メディカル・トリビューン」から取材が来たりした。

研修医3年目。BiPAP というマスク用の人工呼吸器が4台あって、 誰も使いかたが分からないから、倉庫で埃をかぶったまま。 休みになると、それを自宅に持ち帰って、自分に呼吸器をつけて遊んでいたのも今は昔。

マスクを使った人工呼吸器は、その頃は単なる遊び道具。 それがどれだけ役に立つのかなんて、たぶん誰も分かっていなくて、 それにのめりこんだのは、ただ単純に「面白かったから」。

心不全の患者さん。喘息の患者さん。肺炎の患者さん。 次々登場する新しいマスクや、呼吸器の使いこなしかた。

技術進化の方向性なんて見えなくて、「こんなふうに使ってみた!」なんて 多様な報告がメーリングリストを廻る日々。

しばらくして、偉い先生がたが研究会を立ち上げた。

ガイドラインが整備されて、技術は広まって、いろんな論文が 発表されはじめたけれど、その頃にはもう、 最初の頃の熱狂は冷めていた。

ガンマ単位のこと

「昇圧薬は、時間あたりの量ではなくて、体重あたりの量で使いましょう」

うちの研修病院で「ガンマ単位」が使われるようになったのは、 大学の先生が就職してくれるようになってから。

それまでは、昇圧薬の使いかたはみんな共通で、血圧が上がるまで量を調節して、 それっきり。体重が大きな人も、そうでない人も、血圧だけで調整していた。

大学にいった同級生に話を聞くと、馬鹿扱いされた。

当時の大学では「ガンマ単位」が当たり前。昇圧薬は、 患者さん一人一人の体重にあわせて濃度を調整されて、 「1時間あたり5ml」なんて荒っぽい指示ではなくて、小数点以下まで指定していた。

指示の細かさとか、薬の濃度なんかは、なぜだか施設同士で競争するかのように 細かくなって、薬もどんどん濃くなった。今思うと合理的な理由なんてないのだけれど、 何となく、そのほうが精密そうだったから。

医療事故の報道が盛んになって、細かい指示とか、濃い薬なんていうのは実際問題 トラブルが多かったから、そのうち「ガンマ単位」での指示は廃止され、 昇圧薬の濃度はみんな同じになった。

今でも頭の中では「ガンマ」を計算するけれど、それが指示書に記載されることはなくなった。

技術が「自慢競争」のダシにされるとき

  • 何らかの「極め要素」を持っていて、勉強すると「わずかだけ」差がつく
  • 手元にある道具でその技術を再現することが可能

こんな要素を持った新技術というのは、それが拡張、最適化されていく過程で、 技術者同士の「自慢競争」のダシにされ、それが現場にとって有害になるまで極端化されて、 その流れは「使えない技術」として現場が見捨てるまで止まらない。

勉強して得られる利益が「わずか」であるというのが結構大切で、 これが莫大であると、そこに競争は発生しないから、技術はすぐに現場に広まる。

科学者というのは、論文を書かないと食べていけない。

たとえば何かを「10m だけ進歩させる」必要があったとき、 10m を一気にジャンプできる技術というのは 画期的だけれど、科学者が食べていく役には立たない。

同じ「10m の技術」であっても、少しづつ改良を重ねて、「1cm の論文」が1000本書ける技術というのは、 科学者に莫大な仕事を生んでくれる。10m の論文だろうと、1cm の論文だろうと、1 本は1 本。 みんながそこに殺到して、たくさんの1cm が積み重なる。

技術が成熟して、10m を達成する寸前になると、事態はチキンレースの様相を呈する。

「やりすぎた技術」というのは、現場にとって有害になってしまう。 ところが、進化を重ねて「9m 」を越えた頃、その技術に乗っかる科学者の数というのは、 もう引き返せないぐらいにすごいことになっているから、誰もが「あと1cm」を乗せたがる。

最後の数センチに、数百人の科学者が「あと1cm」を積む。

技術は必ず暴走して、役に立たなくなるまで極端化してしまう。

昔だとそれはガンマ単位であったり、人工呼吸器の使いこなしかたであったり。

最近だと、抗生物質の最適な使いかたを目指す「PK/PD」理論あたりは、 まず間違いなくこの流れに乗っかりそう。

「この患者さんには、メロペネム1.0gを2時間47分かけて投与して下さい」なんて、 指示を「最適化する」医師が出てくるはず。

面白い技術はガラクタ箱の中に

たとえばそれは、大昔の「集中治療メーリングリスト」の過去ログ。

90年代初頭、まだ自分が下っ端で駆けずり回っていた頃。 集中治療室の「マニアの玩具」といえば、人工呼吸器と人工心肺。

制御技術が進歩して、高性能な呼吸器が登場するのは10年後だけれど、 呼吸器の「使いこなし」であったり、様々な工夫であったりといったことは、 この頃すでに、ほとんどが試されていた。

人工呼吸器が進歩して、その使いこなしかたを「委員会」の人が決定するようになった頃、 メーリングリストを盛り上げた先生がたは、呼吸リハビリに走ったり、 非侵襲的人工呼吸器に走ったり。

自分が人工呼吸器を面白がりはじめた頃には、教科書はすでに、「エビデンス」とか 「ガイドライン」とか、きれいで無意味な知識で飾られて、判子で押したみたいに同じ内容。

どの教科書も「こんな人はもう治らない」なんて、自信にあふれた記載。 「こんな人は、たまたまこんな工夫をしたらよくなった」なんて、 いいかげんで邪悪な記載はどこにもなくて。

何とかしたくて、いろいろ探して、結局たどり着いたのは、 10年も前の、メーリングリストの過去ログ。そこはエビデンスもない、 「委員会」に名前を連ねる偉い先生なんて一人もいない、ジャンクな記録の山。 自分にとっては求めていた宝の山だった。

研修病院から大学病院に移って、「呼吸器に詳しい奴」として自分が身を立てる役に立ったのは、 この過去ログを知っていて、その記載をいろんな雑誌で確かめたことがすべて。

検証もされていない、教科書にはもちろん書いていない、 でもその技術を世界で一番面白がって、未熟だった当時の技術を使いこなした 技術者の、「遊び」の記録。

たぶんいろんな分野にこんな「ガラクタ箱」が放置されているはず。 それは時代を経た今となっては宝箱となって、きっとどこかで再び空けられるのを待っている。