カミソリが鉈から学ぶこと

うちの学生は、頭の「キレ」でいったら東大にだって負けない。 ところが東大とうちの学校が戦うと、どうしても勝てない。 うちが「カミソリ」だとしたら、あいつらは「鉈」。 戦争になったら、カミソリは絶対に鉈に勝てないんだ。

エンジニアだった父親は、生前よくこんなことを言っていた。もう10年以上も前の話。

カミソリは切れるけれど脆い。鉈は、切れないけれど、丈夫で強い。

今思うといろんな疑問がわいてくる。

  • 切れることは正しくないのか
  • カミソリと鉈、志向するマーケットが違うだけなんじゃないのか
  • 鉈が間違って進化するとカミソリになってしまうなら、 鉈が正しく進化した先には、一体何があるべきなのか
  • 「鉈」の長所にたとえられたもの、父親の大学に欠けていて、東京大学の 技術者の人達が持っていたものというのは何だったのか

子供の頃、こんな話を聞かされたときには「どうせ政治の話だろ」、なんて聞き流してしまったけれど、 あれからずいぶん時間がたって、息子がもっと詳しい話を聞きたくなったのに、 その答えはもう地面の下。

全ての技術は「鉈」に通じる

同僚だった先生がたももう70近くになって、いつか「鉈の強さ」の答えを知りたいと思っては いるのだけれど、まだ誰も引退しないでみんな現役。

人生も70過ぎると、もう最終コーナー立ち上がってバックストレートアクセル全開 (富士スピードウェイをマラソンで走らされた人じゃないと分からないたとえ)、 ゴールまではもう一瞬だから、そうなる前に答えを教えてほしいのだけれど、 blog とか書いてる先生は誰もいなくて、自分も仕事が忙しくて、それっきり。

父親と生前交流のあった先生方には、もちろん東大の人も何人もいたし、 大学を離れたいろんなメーカーとか、研究所とか、あるいは海を越えた人もいて。

とりあえず「東大最強」を前提とすると、父親の「鉈」というのは エンジニアの目指すべきイデアの象徴なんだと思う。

たぶん全ての技術者、その中には東京大学の技術者も含めてほとんどの人は、 自分のことを「カミソリ」であると定義して、カミソリが戦って勝てない仮想敵として 「鉈」を設定して、その目標に向かって技術を磨く。

理想が「鉈」でなくてはいけなくて、カミソリでは勝てない理由。 それは技術者によっては営業力みたいなのが解答になるのかもしれないし、 技術の汎用性や堅牢性みたいな、もっと技術的な理由なのかもしれない。

技術を極めてたどり着いた結論はみんな違うし、未だに現役張ってる先生がたに 言わせれば、きっとまだまだ「たどり着いた」なんて過去形で語ってもらっちゃ困るんだろうけれど、 それでもそろそろ結論を出してもらわないと、若手としては相当に困る。

世代を越える文化というもの

技術には定量的な側面と、非定量的な側面とがあって、 外野から見える「技術」というのは常に定量的な側面ばっかりだけれど、 定量的な考察というのはきっと、技術の一側面にしか過ぎない。

技術のもう一つの側面、非定量的な側面というのものこそが技術文化というべきもので、 技術革新があって、定量的な技術が陳腐化しても、非定量的な技術文化は世代を越えて 引き継がれ、一つの独立した思考形態に収斂していく。

思考方法は人をまとめる。同じアナロジーを理解する人、同じ知識を得たときに、 それを頭で構造化するやりかたが同じ人達というのは、そうでない人に比べると コミュニケーションの帯域幅が圧倒的に広くなる。

みんなの知識は共有されて、同じ帯域を共有できない人との間に一種の断絶を作り出す。 バラバラだった技術者の思考形態は、世代を重ねてやがてひとつになり、 今度は「科学」の一分野として活動を続けるようになる。

抽象度の高い学問分野はこのあたり有利だろうけれど、医学とか工学なんかは実世界を相手にするぶん 思考方面が弱い。それは「発達した技術」ではあっても、共通した独特の思考形態をもった「科学」という段階には まだ達していない気がする。

秘伝書を書く人と書けない人

60を越えて、現役を退いた人たちがブームに乗っかって、今まで蓄積した経験を武器に blog の世界に参入すれば、うちみたいな若手の言葉遊びなんてすぐ吹き飛ばされてしまうはずだし、 読者としてはまさにそれを望んでいるのだけれど、本当に話を聞きたい人達は書いてくれない。

そうでない人達の書く文章というのは、残念ながらあんまり参考にならない。その人たちが一生をかけて 追求した「鉈」という仮想敵、その正体についての考察みたいなものはほとんど出て来なくて、 デジカメの写真とか、犬の散歩したとか、そんなのばっかり。

昔の刀鍛冶の人達は、一生をかけて日本刀というものを追求して、何とかして古い時代の名匠を 越えようと努力したのだそうだ。

一生をかけて火を睨みつづけて、眼球が焼けてほとんど見えなくなった頃、 曇った目にはある日、自分が鍛えた刀がついに「達した」ように見える時が来る。 刀鍛冶はやっと満足できて、秘伝書をしたためて、しばらくすると気が抜けて亡くなってしまう。 そんな秘伝書はたくさん残っているらしいけれど、 残念ながらみんな手遅れになってから書き始めるもんだから、 それが役に立つことはほとんどないらしい。

刀鍛冶の秘伝書というのは、ある意味笑い話、技術馬鹿の哀れな一生にしか過ぎないけれど、 今引退して犬の散歩話を書いている人たちが、自分が秘伝書として残すべき「何か」を もしも持っていないんだとしたら、それは本当にひどい話。

みんなが秘伝書を書いて残して、目標とする「鉈」の種類ごとにタグ付けして競争させて、 生き残った秘伝書を次世代に伝えて、世代を重ねて「鉈の正体」へ。

実世界相手のお仕事というのは、数学や物理学みたいに「系」を支配する公理を論理で探すことなんて 無理だから、答えを出さなくても問題を解決できる方法、遺伝的アルゴリズムみたいなやりかたが 似合ってる。

それは「本当に系全体を代表する最適解なのか?」という疑問に対して 無力なやりかただけれど、実世界で実用するにはたぶん必要充分。

斧や刀でなくても、丸太を切ったり人と戦ったりするぶんには、鉈で充分やっていける。 父親の仮想敵があくまでも鉈であって、斧や刀でなかった理由というのは、 案外このあたりにあるんじゃないかと思うのだけれど、もう答えは分からない。

分野が違っても、きっと技術の継承みたいなものは家ごとに行われたって いいはずだし、物語の魔法使いなんかは、代々の血を重ねていくことで 真理を目指す。

自分みたいに秘伝書を受け取りそこねた身としては、 もう他人様の秘伝書拝ませてもらうしか、他に方法ないんだけれど。