クレーム対策試案

クレームの内容には無数のバリエーションがあるけれど、 クレームを通じて得られるものには限りがある。

クレームの内容とか、ましてや「正しさ」なんて、いくら議論したところで喧嘩にしかならない。 「とりあえず謝っとけ」というのが最近主流になりつつあるけれど、 ただ頭を下げるだけでは役に立たない。

とりあえず謝っておいて、その間に情報を収集して、 「相手は何を求めている人なのか」を探ることができると、 以後の交渉戦略が立てやすくなる。

「クレームをつける」という行為を通じて得られるものによって、クレームをつける人は、 大きく3 種類に分類できる。

  • 対価型:クレームによって何らかの「対価」を得たい人
  • 正義型:クレームによって病院に「正義」を実現したい人
  • 無秩序型:何も考えていない人

その人が求めるものに応じて、最適な対応は異なってくる。以下妄想。

対価が欲しい人との交渉

得たいものは単なる謝罪であったり、入院期間の延長であったり、あるいはもっと実際的なもの、 診察料を割り引くとか、金銭による報酬を要求するとか。

たぶん重要なのは、相手の意見を否定しないで、まずは聞くこと。

相手の求める対価がはっきりしないうちから「それは違います」 なんて反論すると、要求がエスカレートして収拾がつかなくなる。 意見をとにかく聞いて、その間に「結局この人が欲しいものは何なのか」を探り出す。

交渉を通じて何か対価を求める人にとっては、その「何か」こそが、 相手が失って一番困るものであることが多い。

たとえば、対価が「入院延長」であるような人というのは、家の中にはもう患者さんの帰る場所が なくて、病院から謝罪されて退院したところで、今さら引き取れない。こんな人達に 対しては、とにかく謝り倒して、「一度退院して他の施設探しましょう」なんて切り出すと、 その後の話が異様にスムーズに進む。

お金を求める人に対する交渉というのは、他の業界からのノウハウが使える数少ない分野。

基本戦略は「まず頭を下げて、ひたすらに忍従して、お金が絡んだ時点で警察呼ぶ」これだけ。

ベストセラーになった「社長を出せ」とか、クレーム対処本の最終手段というのは、 結局警察に頼るだけ。交渉ノウハウとか、クレームから貴重な助言を引き出せとか いろいろ書いていられるのも、メーカーの交渉窓口のバックには、 「警察力」という巨大な後ろ立てが援用できるから。

ディベートの技術は役に立たない。

やはりベストセラーになった「ヤクザに学ぶ…」系の交渉本には、レトリックの面白さがあるけれど、 そんなことで交渉を有利に進められるのは、何といっても彼らが武力を持っているから。

  • ヤクザの「面白い論理」に乗っかれば、武力なしで理不尽な契約
  • その面白い論理を「つまらない」と蹴飛ばせば、武力行使がくる

ヤクザの交渉というのは、相手に対して「笑ってお金を払う」か、「殴られてお金を払う」かの 2者択一を迫るだけ。武力を持たない病院には参考にできない。

正義が好きな人達

自分のことはどうだっていい、それどころか、そもそも自分の身内に病人なんていないんだけれど、 病院の中に「正義」を打ち立てたい。

マスコミの人達とか、市民団体の人達、妊婦さんやがん患者さんの団体というのは 正義が大好き。

正義は相対的な概念。これもまた、相手がしゃべっているときに 「それは違うと思います」と突っ込むと、大喧嘩になる。

正義が好きな人達は、基本的に交渉相手を「正義の分からない愚か者」だと思っているから、 「違う」と反論されると、「もっと大きな声で分からせる」という戦略をとる。 とりあえず黙って聞く。

この人達に対する対処は2つ。 相手が満足して立ち去るまで黙っているか、泥沼に足を踏み入れる覚悟をするか。

正義が好きな人達は、基本的に忙しい。正義を広める対象は日本中、世界中だから、 田舎の病院ひとつにかかわっている余裕はない。反論しないで黙って首をすくめていると、 たいていは飽きて、どこかにいってしまう。

「正義」をやり過ごすときに大切なのは、相手の考える手続きを大事にすること。 正義が好きな人達は、なぜか内容よりも形にこだわる。 「どうやっても、結果は一緒ですから」という態度は、しばしば致命的な災厄を招く。

相手の正義に対してまじめに反論しようと思ったならば、 まず相手の「正義」が主張するロジックを理解する必要がある。論理を認めた上で、 「その論理でいくと、病院にはこんな問題が生じますがどうしますか?」と相手に尋ね返すことになる。

相手の論理が正しくて、こちらが指摘する問題に対してエレガントな解答を示せるならば、 病院だってその「正義」の信者になればいいだけ。残念ながらそんな上手い話はなくて、 たいていはどこかで論理の破綻を生じたり、相手の「正義」によって、今度はべつな誰かの正義が 不利益をこうむる結果になる。

「その論理に従いたいのは山々なのですが、現時点では残念ながら無理そうです…」

ただしこれをやるには、未来予測をかけるための「病院側の行動ロジック」というものを 実装しなくてはいけなくて、これがないと「あんたがたは、結局その場の利益で動いてるだけだろ」と 正義の人達に突っ込まれて負ける。

「正義の正しさ」は競争のものさしには乗っからないけれど、 「どちらのロジックがより綿密か」は客観的な評価が可能。産経新聞とか、日本共産党とか、 極端な人たちが時々妙に説得力もってるように見えるのは、たぶんこのため。

相手が強い場合、相手に指揮権をゆだねて、仲間になってもらうのもひとつの方法かもしれない。

道路公団批判をしていた作家が、改革の委員に任命された瞬間から政府の広告塔に なってみたり、体制を笑うはずの芸人が、国会議員になったとたんに体制派になってみたり。

医師会も、久米宏とか、みのもんたとか、あのへんを医師会の顧問に据えたり、 あるいは医療改革案を起草する委員になってもらったりとか、考えてもいいと思う。

一番困る「何も考えていない人」

最近、当直中のスタッフが酔っ払いから殴られた。

理由なんて何にもなくて、飲んだ先でボコにされてむかついていたところで、 ちょっと目が覚めたら目の前に自分の手を縫う医者がいた。で、怒りが込み上げて殴ったんだと。

都市部では珍しくもないことだけれど、 うちの病院が始まって20年、こんなケースは初めて。 今まではノーガード同然で、それでもとてもうまくいっていたのだけれど。

これは人災というよりは天災。 言ってみれば「20年に1 度級の大馬鹿」が病院にたまたまやってきたわけだけれど、 病院の救急体制は全面的に見直しを迫られることになった。

「何も考えていない人」は、確率論に従って行動する。そして、こんな人達の「大馬鹿度」というのは、 その人が属するコミュニティの大きさに比例する。

誰もが自由に移動できるようになった昨今、病院ひとつあたりの医療圏は 大きくなって、コミュニティ一つあたりの大きさも巨大になった。

無秩序型のクレーマーが病院に来る可能性はだんだん高くなって、 その「馬鹿度」も10年に1 度級が20年に1 度級になり、 そのうち100年に1 度級の大馬鹿野郎が病院にやってきて、 その施設の救急外来を破壊するんだろう。

コミュニティを小さくする工夫、住民に「かかりつけ医」を登録する制度にして、 その病院以外を受診をするにはそこからの紹介状必須にするとか、 社会制度を変えればこんな人を減らせるだろうけれど、 国会議員10人がかりぐらいでやらないと無理。

今のところは震えながら命乞いするしかない。

患者さんの服装や髪型、住んでいる場所、筆跡や、乗っている車、 飲酒の有無などからプロファイリングを行って、リスクを評価することは可能になるかも。

医療の一分野としての交渉技術

異常な状態を目の前にして、原因を探って、医学のロジックでそれを何とかする。

医療の基本はこんな流れで、それは病院の中でも外でも変わらない。

救急現場からの医療、プレホスピタルケアが医学の一分野として成立するならば、 病院に入ってきたのに冷静な話し合いができない人を「病的な状態」と定義して、 それを「治療する」、冷静に話し合いを持てる状態に持っていく技術、 メディカルネゴシエーションも、また医学の一分野として思考可能なテーマ。

「それは政治の話」とか、「クレーマー病院来るな」で思考停止しちゃうのはやっぱり正しくなくて、 それはよく分からない症状で来た人に「少なくともあなたは外科じゃない」なんて突っぱねるのと同じ。 問題を抱えた人がいて、医学のロジックを回す段階でそれが邪魔になっているならば、 やっぱり医師としてそれを取り除く努力をしないといけない。

医療の世界には資金力もあって、現場に飛んでいく救急隊みたいな人達からの話も聞けて、 「心」とか「関係」とかを専門にする精神科の医者は今大人気で、医局には人があふれる状態。

人質交渉の世界で「Negotiation Journal」なんていう専門雑誌があるんだから、 医療にだってこんな学問、あったっていいはずなんだけど。