納得してもらう方法

アナロジーやたとえ話の学びかたと大切さについて。

合意と納得

単純に「イエス」をもらいたいだけならば、それはむしろ簡単。

基本的なやりかたというのは、相手の見たいものが何なのかを推測して、 それだけを見てもらうこと。

合意を得るのに理解や納得はいらない。それは不必要どころか、むしろ有害でさえある。

ところが、相手から「ノー」をもらって、それを通じて何か有益な体験がしたい、 あるいは何かを学習したいと思ったならば、納得の問題は避けて通れない。

相手の立場からみて、自分の意見の欠点はどこで、改善するにはどうすればいいのか。

こうした疑問に答えをもらおうと思ったならば、 自分の抱えている問題点がどういうもので、それに対して自分がどう考えているのか、 相手に理解してもらわないといけない。

「生データ」は役に立たない

事実をありのまま伝えただけでは不十分。

たとえば「先週箱根に紅葉を見にいったとき、ある一枚の葉だけが緑で、それに強い印象を持った」 というイベントを写真で伝えようと思うと、相当厄介なことになる。

ものすごく解像度の高いデジカメを使えば、「箱根に行った」という情報と、 「一枚の葉に興味を持った」という 情報とを1枚の写真におさめることは可能。

ところが、箱根に焦点を当てれば葉が霞み、 葉に焦点を当てれば箱根が失われてしまう。デジタルデータは無限に細かく再現可能であっても、 頭が一度に処理できる情報は有限だから、「思い」を伝えきるにはデータ量が大きすぎる。

個人の考えを相手に理解してもらおうと思ったら、 変形の効かない写真よりも、むしろ絵のほうが 有利かもしれない。下手すると、統合失調症患者の 心象風景みたいなものになるかもしれないけれど。

なんとか「箱根」と「緑の葉」とを伝えられたところで、それでもまだまだ足りない。

同じ「緑の葉」を見ていても、それをどう認識するのか。それを共有するのは画像だけじゃ無理。

「同じ世界」という幻想

箱根にいった自分と、話を聞く相手。同じ世界を「見る」ことができたところで、 2人が同じ世界を「認識」しているのかどうかは全く別の問題。

その人が認識している世界と言うのは、生い立ちとか、文化背景、興味の対象がちがってしまうと、 全く異なってしまう。

大人というのは、数字が好きだ。 あなたが新しい友だちのことを話すとき、大人たちは大事なことは絶対に質問しない。 「その子はどんな声? その子はどんな遊びが好き? その子はちょうちょを集めてる?」などとは絶対に言わないのだ。 彼らが言うのは 「その子は何歳? 兄弟は何人? 体重はどのくらい?お父さんはいくら稼いでいるの?」 そうやって大人はその子を分かった気になるだけなのだ。 ……星の王子さまより

「緑の葉」というものに対して、たとえばしゃべる側が闘病中の親友のことを考えている一方で、 それを聞いている側は、地球温暖化の問題とか、あるいは環境ホルモンの話題なんかを考えていたり。

みんなが見ているのは、一人一人が意味を与えたものだけから構成される世界。 全人類共通の「客観的な世界」などというのは、その人の認識現実の中には存在しない。

違いの中に同じを見る

たとえ話、アナロジーというのは、相手に納得をしてもらうための手段。

「緑の葉っぱに闘病中の親友のことを思った」という思いを伝えたかったのならば、 相手の立場に応じて、たとえば太陽黒点の話をするとか、 心停止後もなお生きている細胞の話をするとか。

アナロジーというものは、そもそもが自分の言葉で作り出すものではなく、 相手の持っている「体験の部品」を使って、 自分の思いを組み立て直す行為なんだと思う。

萩尾望都の名作SF「スターレッド」の中で、 「火星人はそもそも目を使ってものを見ていない」という話題が出てきた。

「彼らみんな生まれながらにして超能力者だから、視覚を用いなくても外界を直接感覚できる。 眼はついていても、それは単なる飾りにしか過ぎない。」 「ほんの4世代前までは同じ人間であったものが、今では全く違った世界を見ている。 そんな相手と、今さら対話なんかできるのか?」

地球のエスパーが、そんなことを思い悩んでいた。

物語の本筋とは離れるけれど、超能力を持った彼らと、何も持たない地球人との コミュニケーションを成立させたのは、絵や言葉なんかじゃなかった。

役に立ったのは、「子は親から生まれる」「人間は世代を重ねる生き物」という、 同じ種としての人間の共通体験。

争いは止んで、全てを次の世代に引き継いで、物語は終わる。

アナロジーの学習

アクセス厨だ。

一番大事なのはアクセス数と反響で、内容なんて2の次。

これもアナロジーの学習のため。

アナロジーには、「理解と納得とを助ける有効な手段」としての側面と、 単なる形容詞、会話を面白くするための手段としての側面とがある。

独り善がりなたとえ話ならいくらだって作れるし、昔から「分かりにくいたとえ話」で 他人を煙に巻くのが好きだったのだけれど、これは単なる形容詞の延長。 ウケを取れればとりあえず成功だし、それで十分。

ところが、意味や概念の伝達手段としてのアナロジーというのは、 それが「いい」のか「悪い」のか、 自分だけでは検証ができない。

会話というのは、最終的には「合意」で終わってしまう。

合意形成のプロセスには、「納得」という行為は必要で無いか、むしろ有害ですらあるから、 アナロジーが優れているかどうかの評価には使えない。

面と向かった相手との会話には、 ただでさえ同調圧力がつきもの。いいたとえ話であっても、そうで無くても、「そうだね」という 返事しか返って来ない。

検証を行うためには人数を集める必要、それも匿名の「忌憚の無い」意見をたくさん集める 必要があって、それにはどうしても多くの人に呼んでもらう工夫が必要。

内容のほうが大切とか、アクセス厨になるなとか異論はたくさんあるけれど、 こうした行為を一種の学習であると考えると、アクセス数は多くなければ意味がない。

とにかくたくさんの人に読んでもらって、できればアクセス可能な場所で「陰口」を叩いてもらって、 それを読んでまた表現を修正する。

そんなことの繰り返し。

相手の頭で考えて自分の言葉で話す

体育会的な社会、あるいは病院みたいな「退院したらおしまい」みたいな場所では、 「納得してもらう技術」なんてあんまり役に立たない。

反乱分子は潰せばいいし、大切なのは合意形成までに要する時間であって、 合意の深さなんてどうだっていい。

これから先、ネットワーク化が進んで世界が小さくなって、 一つの問題に多くの意識が集中する時が来ると、たぶんこういった技術が役に立つ。

外圧を使って合意に導く方法というのは、表面張力を使ってシャボン玉を維持するようなもの。

小さなシャボン玉はいつまでたっても消えないけれど、それが大きくなればなるほど、 一つの球を維持し続けるのは難しくなる。

集団をまとめる力、表面張力=同調圧力を強化するには、「水」の集団に対して敵対する「油」を 導入することが欠かせないから、争いは避けられない。

これから先、水と油との共存を嫌でも考えないといけない時代。

それは若者世代と団塊世代との確執であったり、医師-患者間の確執であったり。

アナロジーでまとめて、お互いが納得するというのは、水と油とを卵でまとめて マヨネーズにしてしまうようなもの。

顕微鏡レベルでは、水と油とは全然混じっていなくても、全体としては混和している。そんなイメージ

合意の技術や印象操作の技術をいろいろ調べてきていて、どんな方法論があって、実際 どこまでできるのかはなんとなく見えてきた気がするけれど、「納得の技術」はまだまだこれから。

教科書とか、あるんだろうか?