自由のためのパターン化

同じ動作を繰り返して、自分がだんだんと頭を使わなく なってきているという危機感を感じたならば、たぶんその「学び」というのはうまくいっている。

パターン化した動作は、動作が意識に上ることがなくなるから、頭を使わない。 頭を使わないことは、決して悪いことではない。

エチオピアのマラソンランナー、「裸足の英雄」アベベは、 土人だから裸足で走ったわけではなく、 ローマオリンピックの競技コースを下見して、それを踏破するのに 最適なのが裸足であると見抜けたからこそ、裸足で走ることを選択したのだそうだ。

東京オリンピックの時は、アベベも靴を履いて走ったらしい。

アベベは走るということに熟練していて、戦略を変化させることを恐れなかったから、 裸足で走るという大胆な戦略を発想することが出来た。

同じ頭を使わないのでも、動作が熟達してパターン化するのと、 野生の感覚だけで動作することとは、意味が全く異なってくる。

  • 野生が研ぎ澄まされると、戦略は一つの焦点に向かって収束していく
  • 熟達者のパターン化した動作は、無数に変化した戦略へ拡散していく

終盤に変化するスポーツ選手

オリンピックの走り幅跳びの選手は、踏み切りの3歩手前ぐらいまでは、 全く同じ歩幅で走れるのだそうだ。

一歩目から踏み切り3歩前までは、何回計測してもほとんど誤差がない。 もはや機械同然。

ところが、踏み切り直前の「最後の3歩」に入ると、一歩ごとの歩幅がバラバラになり、 計測ごとに全然違う走りかたになる。

大リーグのイチローのバッティングも同様。バットに球があたる直前までは 同じフォームで、最後の瞬間になると、フォームが球種にあわせて大幅に変化するという。

個人競技のスポーツの世界では、記録につながるもっとも大切な瞬間というのは、 動作の終盤にあって、そこで選手の動きは大きく変化する。

将棋は序盤が大切

様々な戦略が研究されている現代将棋の世界では、序盤の勝負がもっとも大切なのだそうだ。

少し前までは、序盤で劣勢に立たされても、中盤以降に盛り返すことが出来た。 ところが、みんながお互いの棋譜を研究するようになって、将棋の戦略は洗練を増し、 その結果、中盤以降に逆転することが難しくなってきたらしい。

チェスはもっと極端で、現在プレイされているチェスのオープニングは、研究し尽されている。 序盤戦の有効な駒の動かしかた知らない人は、それを全て暗記した人とは勝負にならない。

終盤に「その瞬間」が来るスポーツとは逆に、戦略が洗練されて、 相手の一手に対する最善手が決まってくるような勝負事の世界では、 もっとも大切な「その瞬間」は、むしろ序盤にやってくる。

確率論と決定論

スポーツとゲーム。

「その瞬間」の場所の違いというのは、勝負事に対する考えかたの違いから来るんじゃないかと思う。

  • 勝負事を確率論的にとらえる人は終盤に命をかける
  • 勝負を決定論的に考える人は序盤に全てをかける

スポーツ選手は、勝負を確率論的なものと考える。

走り幅跳びで踏み切る瞬間のグランドの状態や風の具合、 バットがボールにあたる瞬間の風向きや球威 といったものは、本質的に予測不可能なものだ。

スポーツ選手は、大切な決定を最後の最後まで遅らせることで、確率による誤差を減らし、 結果がぶれることを防いでいる。

プロの棋士は、たぶん人間の意志は決定論的なものだと考えている。

お互いの戦略が洗練されているゲームの名人同士は、将棋盤を通じて、 お互いにコミュニケーションを行っている。

棋士が将棋を指しているのか、将棋盤が棋士に将棋を指させているのか。

そのあたりの境界は、序盤以降はあいまいになっているんじゃないかと思う。

名人同士の試合は、序盤以降は決定論的な振る舞いが支配的になるから、 初期値に対する敏感性が増している。

だからみんな、序盤に全力をあげる。

技術革新は論理を循環させる

個人競技のスポーツの世界では、たとえば風向きを予想するモデルを作るのは 不可能だから、その勝負は確率論的な振舞いに支配される。

ところが遠い将来、踏み切りの瞬間のグランドの状態とか、その瞬間の風の方向なんかを スタートの段階で予想するモデルが発見されれば、勝負を支配する論理が変わる可能性がある。

将棋の世界では、逆の現象がおきている。

誰もが過去の棋譜を研究するようになって、みんなの振る舞いが決定論的になってきた世界では、 今度は意図的に「想定外」の状況に引きずり込んで、そこから勝ちを拾いにいくという 戦略が出現している。

「私は、早い段階で定跡や前例から離れて、相手も自分もまったくわからない世界で、 自分の頭で考えて決断していく局面にしたい思いがある。」

将棋の羽生名人は、こんなことを言っている。

自分の動作に自覚的であること

時代は読めない。

明王エジソン。たとえば発電から送電、電球にいたるまでのほとんど全ての システムを発明しながら、「これからは交流の時代」という変化を読めなくて失敗したり、 蓄音機を発明しながら、ロウ管録音にこだわるあまり、円盤レコードへの変化を読み誤り、 後発他社においしいところを持っていかれたり、読みを誤って失敗すること、多数。

それでもエジソンが生きているうちに成功したのは、自分が発明したものに対して 自覚的で、どんな些細なものでも特許をとって、後発メーカーとの訴訟合戦に、 それを縦横に駆使したことが大きい。

時代の変化についていこうと思ったら、 常に自分のやっていることに自覚的になることというのは大事だ。

自分の動作に自覚的になるのも難しいけれど、 時代を読むのに比べれば、まだ自分の努力で何とかなる範囲。

日本人が箸を使って食事をすることを初めて意識したのは、 ナイフとフォークが入って来た明治時代以降なのだという。

場所を移ったり、いろいろな流儀に触れるのは大切で、 他の人の動き、自分とは微妙に違った動きに触れて、そこで「こいつらダメだ」と思考停止しないで、 自分の動きの中の合理性と不合理性、他の人の動きの中から学ぶべきこと、 自分が学んできた動きの言語化などを出来るようになると、きっと何かの役に立つ。

認識のレベルをWhat からHow のレベルへとブレークダウンさせておくということは、 勝負でもっとも重要な「その瞬間」に至ったとき、 変化に対して意識が柔軟に対応できるように準備しておく、 そんな意味があるんじゃないかと思う。