物語創造の文法

物語だけじゃなくて、たぶん現実も。

何もないところから全く新しい文章を書くのは難しいから、 何かを書くときは、過去に他の人が書いたものを参考にする。

一つの文章というのは、書くきっかけになる「発想」の部分と、 その文章で作者がいいたかった「結論」からなる。

発想も結論も同じ文章というのは、単なるパクりになってしまうから、 そこは工夫して新しく見せる。「工夫」のしかたというのは、 だいたい以下のようなパターンに分類できる。

  • 演繹 :発想を借りてきて、そこから結論を変える
  • 帰納 :結論は同じでも、そこに至る道筋や、書くきっかけになったイベントを変える
  • 補間 :全く別の分野から発想と結論をもらってきて、その間を自分の知識で埋める
  • 生成 :新しいモデルを発想して、それを膨らませて文章にする。本当の創作

発想を借りてくる

イデアは大事だ。

完全にオリジナルのものを発想するのは本当に難しいから、 誰かが思いついたアイデアは繰り返し流用される。

たとえば、古典的なSF のテーマ、「人工知能に感情が芽生える」というアイデアも、 そこに様々な結論をくっつけて、ちがう物語として繰り返し再生されている。

  • 人間に学ぶ :非合理的な行動なのに、なぜかうまくいく地球人の行動をトレースした結果、感情が生まれる。 「スタートレック」では、ミスタースポックをはじめとしてこのパターンが何度も語られる。
  • ソマティックマーカー :多すぎる情報の中から強引に意思決定するため、自然発生的に感情が生まれる。 脳化学の分野で語られている、ダマジオの「ソマティックマーカー仮説」そのもの。 「涼宮ハルヒの憂鬱」のシリーズで作者の人がやろうとしているのは、たぶんこのテーマなんじゃないかと思う。
  • SQL インジェクション :エラー情報を突っ込むことで、物語の誰かが人工知能をハックしようとする。 主人公たちは、機械に「感情」を教えることでそれを回避する。手塚治虫の映画の中で、 これをテーマにした奴があった気がする。

基本的なアイデアは全部同じ。「なぜ機械に感情が必要なのか?」という質問に対する答えを 変えるだけで、ずいぶん違ったお話が作れる。

「なぜ」の説明を放棄してしまえば、たとえば「ターミネーター2」の中などでもこのテーマが使われていた けれど、必然性のない感情の芽生えは、アイデアとしては今一つ。シュワルツェネッガーはかっこよかったけれど。

結論をいただく

  • ライフハック系の結論を、医療現場のエピソードから導いてみる
  • ネットワーク科学やゲーム理論のテーマを、僻地医療や産科医減少の話題の説明として使ってみる

Weblog 時代。いい結論の文章というのは世の中に多くで回っていて、 自分もあんな文章を書いてみたいなとよく思う。

書いてみたいなら書けばいいのだけれど、そのままやると丸写しにしかならないから、 そこに自分の「色」をつける。

いちばん簡単な「色」の違いというのは、作者と自分の属性の違いだ。

相手は作家だったり、プログラマーの人だったり。自分は医者。

現場からでてきたいい結論というのは、気がつかないだけでどの職場にも共通して「あった」ものが 多い。だから、他の現場から書かれた結論に、医療という自分の属性を付加してやると、 一見新しい文章を作ることができる。

相手が心理学者とか、カウンセラーといった「その道のプロ」だと、なかなかうまく行かない。

あの人達は、まず結論ありきで現場の空気を抽象化しちゃうから、 現場からボトムアップ的にアイデアが立ち上がってくる過程、 あるいはそれを発見した作者の興奮を無視してしまう。

書いている人の情熱が伝わってこない文章は、読んでいてつまらないし、 ましてや同じテーマで自分の話を書いて見たいなんて、思わない。

自己啓発系の人達の本というのは、目次は面白いんだけれど、 中身はたいてい期待はずれ。

補間の技法

自分には新しいものを生成する能力はないから、もっともらしい文章を書いているときは、 たいていは何か別の世界のアイデアを「補間」して、新しい文章をでっち上げている。

補間の基本は、観察だ。

やり方は、こんな感じ。

  1. 他の分野、たとえば新興宗教の教義とか、ファンタジー世界の魔法のルール や「奇跡」が生まれるまでの物語といったものを観察する
  2. それが始まった「起源」と「結果」を抽出する
  3. その間を、現実世界の知識、医学や心理学、ネットワーク科学の知識など、自分の得意分野で強引に埋める
  4. ほとんどの人は、もとネタの教義なんて知らないから、全く新しい文章に見える

異分野で、結論に至った過程を物語にするやりかたというのは、小説の多くで目にする。

たとえば、現代文学やSF、ミステリーといった様々な小説のジャンルというのは、 お互いに読者が重ならないから、補間しあう関係の小説がけっこうある。

カズオ・イシグロという英国の作家が人気だけれど、あの人の小説というのは、 SFやミステリーの分野の作家が幻視した結論を、現代文の言葉で補完した物語だ。

だから、現代文学読みの人には大いに受けるけれど、根っからのSF読みには今一つ。 「これ○○そっくりじゃん」と指摘するのは、読者としてはあまり行儀がよくはないけれど。

補間をするには、何かモデルになるような発想をした人の文章を探す。 これがけっこう難しい。

たとえば宗教書。

教祖にあたる人が「勉強」をして作り上げた教義は、あんまり役に立たない。

その人の努力とか、意図が透けて見えてしまって、「ああ大変でしたね」という感慨はあっても、 その人の発想と結論をもらおうという気にはなれない。

面白いのはむしろ、伝統宗教の人達の逸話とか、新しいところではシュタイナーの神智学とか。

「面白い」と感じる人達の物語というのは、何の意図も計算もそこにはなくて、 「とりあえず見えちゃったから、 あるいは神様がこう見せたんだからしょうがない」という意志が感じられるもの。

過去の有名な宗教家には、莫大な勉強量が逸話として伝わっている人が多い。

そういう人達は、勉強しておもしろい教義を作り出したのではなくて、何か「見えてしまった」ものが あまりにも想像を絶していて、それをみんなに説明するために勉強をせざるを得なかったんじゃないかと思う。

縁起から結論へ。

宗教家が「ジャンプ」して省いた部分には、どんな思考過程があったのか。 それを考えるのが面白くて、いろんな科学書を読みあさって、調べて文章を書く。

地震雲が発生すれば地震が起こる。関連性を科学的に証明出来ないからといって 簡単に切って捨てているから、地震予知の発達が遅れる。 科学的に証明できなくても、関連性が有るという事象はあるのだ。 映画「日本沈没」より引用

「関係」を説明する道筋というのは、科学の世界では常に一本、 あるいは政治的に一本しか許されないけれど、 創作の世界では無数。

だからおもしろい。

生成~本当の創造活動

生成に必要なのは、モデル化の能力だ。

現実世界を観察したり、あるいは作家が自分の過去の経験を観察したりして、 その膨大なデータの中から、何かの関係を説明するモデルを作り出す。

これがアイデアになって、全く新しい文章ができる。

モデル化がうまくいかないと、そのモデルが説明する現実世界は例外だらけになる。 そういうアイデアを読んでも、自分の身の回りの出来事として実感できないから、 あんまり刺激を受けない。

洋の東西を問わず、昔の薬というのは、とりあえず「効く」ものを集めて、 それから何がおこっているのかを考えた。

そのモデル化が正しいのかはさておき、 「薬が効く」というのは観察に基づいたものだったから、実際古い薬はよく効くものが多い、 というより、効く薬しか現代まで残っていない。

今の薬があんまり効いた気がしないのは、モデル化が十分でなくて、不十分なモデルから 薬を作り出して、現実をそれにあわせているからなんじゃないかと思う。

最近だと、SSRI に効果があったと「証明」した科学的研究に、スキャンダラスな疑問が 投げられているけれど、製薬メーカーとしては「作ってみました、効きませんでした」 じゃ商売にならないから、こうした結果はある意味当たり前。

心臓の領域なんかでも、1990年代までの論文というのは、当時すでに発売されていた薬の効果を 「再発見」したものが多かったから、すぐに試せたし信用できた。

そのスタディが証明されても、 ウハウハになる人は、そんなに多くはなかったから。

いくつものスタディが重なって、「たぶん、人体の中ではこういうモデルで物事が進んでいるんだろう」 という合意が出来て、それに基づいた薬が作られるようになったのがこの10年ぐらい。

新しい薬は、そんなわけで怖くて使いにくくて、うちのお客さんに出しているのは古いものばっかり。

思考停止の先にあるもの

物理学者によれば、モデル作りという行為は、レンガで家を造るようなものではなく、 星から星座を作るようなものなのだそうだ。

はじまりはいつも実世界から。

星の位置というのは変わらないけれど、変わらないデータをみて、そこから何かを発想する。

データの絶対量は変わらないけれど、その間の物語を発想することは可能だ。

物理学者は物体を見て、原子を想像した。

一般人が「原子って硬ぇ、すげえ」と思考停止している間、物理学者の人達は、「原子の物語」を さらに発想して、電子や陽子の世界を経由して、今は世界を振動させる紐の正体を捜してる。

大事なのは、仕事の中で「遊ぶ」ことなんだそうだ。

実験計画を提出して、あらかじめどんな「発見」が行われるかを申請してから予算がつくような、 今のやりかたからは、全く新しいアイデアを生成するのは難しい。

本当は、新しい星座を作るみたいに、昔の人と同じ「生データ」を何度も解釈し直して、 新しい説明モデルを作ってみるような試行錯誤も必要なんだろうけれど、 その行為は傍からみると遊んでいるようにしか見えないから、予算がつかない。

遊びのない仕事は歪む。

高校野球児は、野球という誰かが作ったモデルの中で一生懸命にやりすぎるから、 「見返り」を他に求めざるを得ない。だから、リンチとか不祥事といった事件をおこす。

「演繹」や「帰納」といった創造の方法論は、 過去の誰かが作ったレンガを重ねて、新しく家を建てるようなものだ。

とりあえずは確実に新しいものができるけれど、もともとのモデルや結論だって完璧ではないから、 自分達の実世界とは微妙にずれたものにしかならなくて、どうもうまくいかない。 新しい発想が欲しい。

普段臨床をやっていて、実際のところ、そんなに困っていない。治る人は治るし、 治らない人は、やっぱり何をやっても治らないし、治し方が分からない。

「分からない」で止まらないで、あるいは分からないことをいたずらに神格化しないで、 医学は奥が深いとかじゃなくて、もっと他の発想を動員できると何かが生まれるんだろうけれど、 うちの業界は「成功」を保証することが求められているから、なかなか難しい。

臨床医学それ自体の分野の中で、「生成」という行為を行うのはそんなわけで相当困難に なってきたから、最近興味があるのは「補間」ばっかり。

TRIZ (創造的発明手法)なんていう方法論があるとおり、他の業界の創造のプロセスというのは、 自分達の業界でも類型化可能なことが多いから、医学以外の本を読むことが多くなった。

臨床医学の知識なんて、もうガイドラインだけでいいや」なんて思考停止しちゃうと、 もう医者として終わっちゃうからそれでは絶対いけないんだけれど、 最近は論文を読む量が減っている…。。